中村半次郎は最期まで西郷どんと共に戦った!人斬りではない逸話や子孫について語ろう

中村半次郎は後に桐野利秋(きりの としあき)と称します。

小説のタイトルで「人斬り半次郎」などと
おどろおどろしい呼ばれ方をしていますが、
実際はどうなのでしょうか!?

 

本記事では“人斬り”などではない
人情味あふれる人柄を示す逸話
西南戦争で西郷隆盛と共に迎えた壮絶な最期をお伝えいたします。

そして、子孫が居たのか?
また、お墓はどこにあるのか気になりますよね。
調べてみました。

 

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中村半次郎(桐野利秋)の生涯をサックリと

極貧の少年期

中村半次郎(桐野利秋)は、1838年に
鹿児島県鹿児島市で中村与右衛門の次男として生を受けます。

中村半次郎(桐野利秋)が10歳の時
父が流罪に処せられ、家録を没収されるという憂き目に会います。

この時代の下級武士が家禄を没収されるということは
収入源を絶たれるということで、
貧しい少年時代を送ったであろうことは
想像に難くないですよね!

 

18歳の時には、兄も病死し、
家計は中村半次郎(桐野利秋)の双肩にのしかかってきたようです。

 

田畑の開墾や小作農として生活を支えていたようですから
想像を絶する苦しい少年時代です!

 

 

NHK大河ドラマ「西郷どん」でも、
武士は武士でも下級武士。

貧しい暮らしに耐えかねて
「芋泥棒」をしたり、
一家で薩摩藩を脱藩しようとするなどという下りが描かれています。

 

 

 

しかし、中村半次郎(桐野利秋)は、
剣豪として知られています。

この通り貧しい暮らしの中ですから、
有名道場に通えたとも思えません。
いったいどうやって剣の修業を行ったのでしょうか?

 

江夏仲左衛門の道場で野太刀自顕流
手ほどきを受けたという話も伝わっていますが、
殆どは独学・我流だといいますからもはや、天才!

自宅の庭の木を毎日のように3~4本は切り倒していたといいますから、驚き!!

 

 

幕末に諸藩の士族と交流!歴史の表舞台に半次郎登場!

1862年中村半次郎(桐野利秋)24歳の時
島津久光に随行し上京しています。

この後、諸藩の士族と交流を深め
西郷隆盛や大久保利通らとも親交を深めてゆきます。

 

禁門の変の前には長州藩邸を訪れ、
薩摩の中立を告げたり、水戸天狗党の乱の際には薩摩代表として接触しています。

 

鳥羽伏見の戦いでは東海道軍先鋒として大活躍、

江戸城無血開城談判では、西郷隆盛とともに事にあたり、

戊辰戦争後の会津若松城受け渡しの大任を果たします。

 

 

維新後は

明治2年鹿児島常備隊大隊長

明治4年御親兵大隊長・陸軍少将

明治5年熊本鎮台司令隊長

明治6年陸軍裁判所長

そして極めつけは、正五位を賜り
住んでいた豪邸は「池之端の御殿」と称されていたようです。

けれども華やかな人生もここまでです。

 

 

征韓論で西郷隆盛が下野すると、
いの一番に駆けつけたのが、中村半次郎(桐野利秋)でした。

 

すべての職を辞し、鹿児島へ帰った中村半次郎(桐野利秋)。

 

吉田村宇都谷久部山の原野を開墾し始めます。
全く、豪邸に暮らしたかと思えば、
荒れ地を開墾するとは、波乱万丈というか強い方だというか・・・!

西郷が命を落とした薩摩・城山。

中村半次郎は最後まで西郷とともに戦い
9月24日銃弾を右額に受け戦死。

享年40歳

墓は鹿児島市浄光明寺

 

 

中村半次郎(桐野利秋)西南戦争で殿(しんがり)を務めた壮絶最期!

西郷どんとの深い縁!

『中村半次郎(桐野利秋)の生涯』の項目でも述べましたが、
西郷隆盛が征韓論に敗れて、
故郷・鹿児島へ帰ったときに、
いの一番に西郷に従ったのがこの中村半次郎(桐野利秋)です。
明治6年(1873年)の出来事です。

 

でも、この時代の男性って凄いですよね。
現代人にこのような方はいるのでしょうか?

だって・・・。

明治新政府の中で栄華を極めた、
と言ってもおかしくないほどの出世ぶりですよ。

もし、“損・得”この二つだけで考えるならば、アホですね、中村半次郎(桐野利秋)は!

でも、西郷隆盛とともに、
より良い日本国を作りたいという
“志”
それを軸に考えたならば、大いに納得できます。

で、西郷隆盛然り、中村半次郎(桐野利秋)ら
この時代の男性方は、金品よりも志

“武士の魂”っていうやつですかね~~。

私みたいな怠け者には到底計り知れない境地ですが憧れます。

 

他人と比べてどうこうではなく、
いつも自分の中の“志”を軸に行動を起こす

その行動の結果が、出世であり、叙勲であり、豪邸であった。
しかし、志から外れたことをするのであれば、
さっさとそれらを捨て去り、執着しない。

良いですね~~。
スッキリしています。
ブレないですね。
志があれば、占いなど必要ありませんね。

だって、損するか、得するか、
運が良いとか悪いとか、関係ない世界ですものね!

生き方として、見習いたいです。

 

ただ、時代は中村半次郎(桐野利秋)を放おって置かないのですよね~~。

吉田村宇都谷久部山の原野を開墾し
明治8年には「吉野開墾社」をつくり、
指導を始めた中村半次郎(桐野利秋)でしたが、
またまた歴史の表舞台に引きずり出されることになります!

 

 

西南戦争。西郷どんと共に最期まで!

明治10年(1877年)2月
西郷隆盛刺殺計画・火薬庫襲撃事件に端を発し
我が国最後の内戦・西南戦争へと突き進んでいきます。

同年2月20日、ついに戦闘の火蓋は切って落とされます。
中村半次郎(桐野利秋)は、池上四郎と共に熊本鎮台を包囲攻撃します。

しかし、ご存知のとおり
熊本城は城作りの名人・加藤清正公が作った難攻不落の城。

攻撃に手間取り、軍議が長引いている間に
明治政府軍の攻撃が開始されてしまいます。

戦況は一時膠着しますが、やはり多勢に無勢は否めません。

3月20田原の戦いで敗れると、続く安静橋口の戦いでも敗れます。

これにより薩摩軍は熊本城の包囲を解き
撤退を余儀なくされます。

ここで殿を務めたのが中村半次郎(桐野利秋)です。
軍は進むより引くときが難しいといわれています。

宮崎まで退き、そこに西郷隆盛を迎え本営とします。

薩摩軍は8月から行われた戦いでも政府軍に敗れ
西郷を警護しながらの山越えで薩摩・鹿児島を目指します。

西郷隆盛、中村半次郎(桐野利秋)の最期の地は故郷・鹿児島の城山です。

9月24日政府軍の総攻撃が始まります。

西郷隆盛に付き従っていたのは

中村半次郎(桐野利秋)
桂久武
村田新八
池上四郎
別府晋介
辺見十郎太
他数十名。

皆、ハナタレの幼い頃から共にこの地に抱かれて育った男子達。
西郷と城山に抱かれて最期を共にします。

凶弾に倒れた西郷隆盛が
別府晋介の介錯で自決します。

 

西郷隆盛の最期を見届けた中村半次郎(桐野利秋)は
さらに進軍を続けますが、銃弾を右額に受け絶命します。

享年40歳の激烈な、
しかし、志を貫いた潔い生涯でした。

 

 

中村半次郎(桐野利秋)は人斬りではない!人柄を示す逸話の数々!

中村半次郎(桐野利秋)が“人斬り半次郎”と言われた理由

池波正太郎先生の小説などの影響もあって
中村半次郎(桐野利秋)は“人斬り半次郎”というイメージが色濃くあります。

けれども、中村半次郎(桐野利秋)が
人斬りを行ったという記録が残っているのは生涯で2回のみです。

 

薩摩藩で陸軍教練をしていた
軍学者・赤松小三郎に幕府の密偵の疑いあるとのことに気づき暗殺しています。

この時、赤松小三郎は短銃を所持していたようですが
中村半次郎(桐野利秋)に一刀両断・斬り捨てられています。

あと1回は、明治元年(1868年)
一刀流の剣客・鈴木隼人ら3人の刺客に襲われたときです。
刺客一人を斬り捨てますが、
中村半次郎(桐野利秋)も左手の中指と薬指を失くしています。

 

ちょっと、強すぎて恐いですね!!

 

その太刀筋の鋭さや優れた技量のために
“人斬り”などと評されたのでしょう。

 

 

中村半次郎は“人斬り”ではない逸話の数々!

薩摩藩と長州藩の和解に奔走!

中村半次郎(桐野利秋)が自ら望んで
長州に赴き、薩摩・長州の和解を図ろうとしたことは
大久保利通と西郷隆盛との書簡に記されています。

しかし、結局「禁門の変」で
薩摩・長州両軍はぶつかります。

この時中村半次郎(桐野利秋)は
積極的に戦ったとも、極力戦闘を避けたとも
双方の証言が残っているようです。

無駄な殺生は避けたい、
志が通じるものとは和解し、力を合わせたい、
このような、人との間に障壁を作らない性格が伺えます。

 

 

中村半次郎(桐野利秋)坂本龍馬を見舞う

坂本龍馬は世に有名な寺田屋事件の後
薩摩藩邸に匿われていました。

その龍馬を毎日のように見舞ったのが中村半次郎(桐野利秋)です。

やはり、志を持つ者同士、肝胆相照らすものがあったのでしょう!

龍馬が暗殺された後、犯人探索に協力
葬儀の後には龍馬の甥の高松太郎らとともに墓参りもしています。

 

なかなか、人情に篤いです。

 

 

中村半次郎(桐野利秋)松平容保から宝刀を贈られる

薩摩・長州などの倒幕軍が
最後まで抵抗を続ける会津藩を攻撃した戊辰戦争。

 

NHK大河ドラマ「八重の桜」
綾瀬はるかさん主演で見事に描かれましたよね。

感動的ドラマでしたが、
あの会津藩が戦に敗れついに開城された時。

 

官軍を代表して城の受取を行ったのが
中村半次郎(桐野利秋)だったのです。

この時の中村半次郎(桐野利秋)は
城中の有様を見て男泣きに泣いたと言われます。

 

そして、城受け渡しに際しては、
作法に則り、城中に残った会津藩士たちに対し
温情ある態度で接したといわれています。

後にこれを聞き、松平容保は中村半次郎(桐野利秋)に大変感謝したといわれています。
その御礼として、宝刀を授けたと記録に残っています。

 

勝てば官軍、負ければ賊軍。

敗れたとはいえ、
会津の人々もまた、志を貫いた人々だったのです。

 

それを最も強く理解できる人だったのですよ、
中村半次郎(桐野利秋)という人は。

 

実はオシャレだった中村半次郎(桐野利秋)

中村半次郎(桐野利秋)は、
いつも身ぎれいにしていたことで有名で、
着物などはきれいに洗濯が施され、
およそ汚れ目一つ付いていなかった、といわれています。

パキっとした、かっこいい男性だったのでしょうね!

しかも、この時代に
フランス製のお香水を使っていたといいますから、
「どんだけ~~!!」

ですよね。

亡くなったときも、お香水の香りが漂っていたそうですよ。

そういえば、豊臣秀頼の家臣・木村重成も
死に際して髪に香を焚き染めていたといいますから。

イケメンは、己の匂いにも気配りをする!

 

中村半次郎に子孫は居たのか?

実子は居ません。

妻は帖佐小右衛門の次女・ヒサです。

ヒサが明治11年に家督を相続し、
弟の長男・山ノ内栄熊を養子にしています。

 

中村半次郎は死後賊軍の将として
官位を剥奪されていますが、
その後名誉回復しています。

 

実子は居ませんがお家は存続しています。
子孫も繋がっていますから、安心ですね。

 

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まとめ

極貧の少年時代を送った中村半次郎(桐野利秋)

父・兄を相次いで亡くし困窮を極めていました。

 

しかし、剣術において天賦の才があり
認められて島津久光とともに上京してから
その才に花が開きます。

 

坂本龍馬ら諸藩の志ある剣士や
西郷隆盛らと親しむうちに
優れた人柄と才気で出世を果たします。

 

しかし、一旦西郷が下野すると
真っ先に西郷と行動を共にします。

 

西南戦争で最期まで西郷隆盛とともに戦い
命日は西郷隆盛と同じです。

 

人柄は、世に評されるような「人斬り」
ではなく、人情味に溢れたおしゃれな人物だったようです。

実子は居ませんが養子があとを継いでいます。

 

 

享年40歳

墓は鹿児島市浄光明寺

まさに、男の中の男!

あっぱれな生涯でした!

 

では、本日も最後までお読み頂き有難うございました。

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