於大の方とは~墓や築山殿との関係は?家康を見守り続けた慈母の生涯!

 

 

 

於大の方(おだいのかた)は、
徳川家康を産んだ母親ですが、
家康とは、家康が三歳の時に生き別れてしまいます。

戦国時代に小国の姫として生まれた悲哀は
於大の方も大河ドラマのヒロイン直虎も同じです。

於大の方とは、どのようなところで生まれ
なぜ家康と生き別れてしまったのでしょう?

墓所や築山殿との関係など、その生涯をまとめました。

 

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於大の方、その生涯とは?

於大の方はどこで生まれた?

於大の方は、緒川城(愛知県知多郡東浦町)で生まれました。

生年は享禄元年(1528年)で、6歳までここで暮らしたといわれています。

ちなみに、於大の方生誕の地・東浦町の
マスコットキャラクターは、「おだいちゃん」です。

出典:https://higashiura-guide.jimdo.com/

めちゃくちゃ、愛らしいこと!

桜の季節4月の第三土曜日には
『於大まつり』が催されているようです。

八重桜で有名ですので、観光にはもってこいです!

 

お祭りの当日は、於大公園や緒川城址などをガイドしてくださるようです。

出典:https://higashiura-guide.jimdo.com/

於大の方の両親は?どのような家に生まれたのか?

於大の方の父は緒川城主・水野忠政
母は華陽院・於富の方との間に生まれています。

 

於大の方の生母・於富の方は
大変美しい女性だったようです。

そのため忠政は、当時親交を深めていた
三河の松平清康に求められて、
於富の方を離縁し、清康に嫁がせています。

戦国時代の女性はまるで品物扱いですね・・・。

 

さらに忠政は、松平家とさらに友好を深めるために、
於大の方を松平清康の嫡男・広忠に嫁がせています

天文10年(1541年)於大の方、14歳のことでした。

そして翌年、天文11年12月26日(1543年1月31日)に家康を産みます。

すぐに男子に恵まれたことはこの時代では誇らしい事だったでしょうね。

後継の男子を産むことが、何より大きな仕事とされていましたから。

 

ちなみに、現在放送中の
NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では、
井伊家の後継・虎松(後の井伊直政)が匿われている鳳来寺

 

松平広忠・於大の方は、
夫婦で男子出生の祈願にこの鳳来寺に詣で
家康を授かったといわれています。

 

 

若くして、友好があった松平家に嫁ぎ
すぐに男子を授かった於大の方でした。

ここまでは、まずまず順風満帆。

ところが、戦国の風雲に於大の方の運命は翻弄されていきます!!

 

於大の方、松平広忠に離縁される!家康は?

父・水野忠正の跡を継いだ於大の方の兄・信元
今川氏と絶縁し、新興しはじめていた織田家に従うことにしたのです。

 

今川に臣従している松平家としては
広忠の正室・於大の方の出自が
水野家というのは実に憚られることだったのでした。

 

有らぬ言いがかりをつけられ、
お家を取り潰されでもしたら一大事ですからね。
戦国の悲哀です。

こうして、於大の方は、可愛い盛りの
まだやっと3歳になったばかりの竹千代(後の家康)を置いて、
生家・水野家に返されたのでした。

つまり、離縁です。

別に、夫婦仲が悪かったわけでもなく、
病気をしていたわけでもない。

織田・今川という対抗勢力の影響で
泣く泣く我が子を手放した、ということですから胸が痛みます。

 

 

家康と生き別れてからの於大の方はどうなった?

実家の水野家に返された後の於大の方は
またもや政略の道具に使われます。

 

兄・水野信元の命で1547年に
知多郡阿古居城主・久松俊勝と再婚します。

 

愛だの恋だの、浮いた話ではありません。
これなら庶民の方がまだ自由だったかもしれませんね。

 

戦国のお姫様は大変だ!

 

でも、於大の方は久松俊勝との間に
3男3女を儲けていますから、夫婦仲は良かったのでしょうね。

 

於大の方が産んだ3人の男子は
後に家康から松平姓を与えられ、
徳川幕府の譜代大名になっています。

その点は、女性としてはお幸せだったかも知れません。

 

それに、なんといっても
実子が後に天下人になるのですから、
晩年は良いですよ~~!

 

 

於大の方と家康の関わり

於大の方は、幼くして生き別れとなった
竹千代・家康のことを忘れることはありませんでした。

家康は十数年という長きに渡り
人質生活を余儀なくされています。

 

最初は織田家へ。
その後、今川家に人質として送られています。

 

於大の方は、その間我が子・竹千代(後の家康)に
頻繁に菓子や日用品を贈っていたといいます。

 

天下の今川家の人質ですから
そう困窮はしていなかったでしょうが、
菓子などがふんだんに振舞われていたかどうかは疑問です。

 

そんな中、顔もうろ覚えの実母からの
度々のプレゼントはどんなに嬉しかったでしょうね。

決して忘れていないよ、
いつも見守っているよ、っていうサインですからね。

 

でも、於大の方にとっては
これは命がけの所業でしょうね。

何しろ今川とは敵対しているわけですから。
事が明るみに出れば、竹千代も於大の方もただでは済まないでしょうから。

 

けれども、時代は大きく動き始めます!
戦国時代の一大センセーショナルな大事件、
桶狭間の戦いが起きます。

 

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの後
家康が織田信長と同盟し、
家康は晴れて生母・於大の方を迎え入れることができます

 

 

於大の方は、久松俊勝が天正10年(1582年)に死去した後は
菩提寺の安楽寺で剃髪し伝通院と号します。

 

2年間安楽寺に住まい、夫の菩提を弔ったといわれています。

 

 

於大の方の晩年・お墓はどこにある?

於大の方は、慶長7年(1602年)8月
家康の居る伏見城で息を引き取ります。

葬儀は京の知恩院で執り行われ、
遺骨は江戸・小石川の傳通院に埋葬されています。

出典:http://wheatbaku.exblog.jp/16333148/

 

エピソードから推察した於大の方の性格

で、於大の方っていったいどんな方だったのでしょうね、性格は?

天下人の御生母様ですから、
悪口が史実に残っているはずはありません。(笑)

なので、エピソードから推察しました。

エピソード1

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの後
家康の異父兄弟で於大の方の子・定勝を
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の養子にするという話に断固反対。

これを却下させています。

エピソード2

慶長7年(1602年)高台院(豊臣秀吉の正室)や後陽成天皇に拝謁。
豊国神社に詣でる。

これら2つのエピソードや、
家康が人質時代に、危険を冒してでも
我が子に贈り物を続けたことなどをみても、
ただの柔なお姫様ではないことは確かです。

戦国の荒波に翻弄されながらも、
女性として、母として強く生き抜いた人、という印象です。

そして、こうと思ったことはやり遂げる
信念のある人。

ではないでしょうか。

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では、
大女優・栗原小巻さんがキャストですね!

ピッタリではないでしょうか。

楽しみですね!

家康の妻・築山殿との確執はあったのか?

家康の生母・於大の方と
正室・築山殿との確執があったのかどうか?

あったように示されている書物もあります。

でも、どちらにしろ
築山殿は家康によって
嫡男・信康と共に殺害されています。

詳しくはコチラの記事で述べていますので
お読みいただけたら嬉しいです。

関連記事⇒瀬名姫(築山殿)が家康に殺害された事件の真相と呪いが恐すぎる!

 

於大の方の波乱に満ちた生涯をみるとき
今川家の圧力で3歳の我が子と生き別れたり、
久松俊勝との間にできた子・定勝も
今川氏真に人質に取られたりと、今川家とは如何にも悪縁です。

 

今川家の血筋の姫である築山殿(瀬名姫)と
確執があったとしても、不思議ではありません。

 

築山殿は築山殿なりの
プライドもあったでしょうし。

これに、推察した於大の方の人となりを思いますと・・・。

二人とも、戦国の姫とはいえ、強き女性ですからね!

 

 

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まとめ

徳川家康の生母・於大の方は
1528年、父・水野忠正、母・於富(華陽院)の間に生まれます。

14歳で友好関係強化のために
松平広忠の元に嫁し、翌年竹千代(後の家康)を産みます。

しかし、家の事情で広忠と離縁
3歳の竹千代(家康)と生き別れになります。

その後久松俊勝に再稼しますが、
人質となった我が子・竹千代(家康)を忘れず
贈り物を絶やしませんでした。

その後、桶狭間の戦いで
家康が織田家と同盟を結ぶと、
再婚先の久松俊勝とその息子たちと共に松平姓を与えられます。

夫・俊勝の没後は伝通院と号し2年間菩提を弔います。

家康が天下人となったことを見届け、
1602年に他界します。

墓所は小石川の傳通院にあります。

戦国の世を強く生き抜いた女性でした。

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では、
大女優・栗原小巻さんがキャストです!

では本日も最後までお読みいただき有難うございました。

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