武田信玄の死因は仏罰か!?直虎との関係や井伊谷蹂躙を解説!

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

「甲斐の虎」と恐れられた武将・武田信玄
大軍を率いて京へ登る西上作戦の途中で亡くなりました。

その死因は諸説あります
「仏罰」ではないか?と思われる節があります。

そしてそれは何と、井伊直虎・直政
武田軍による井伊谷蹂躙と深く関わっていたのです!

 

武田信玄の死因をまとめ、
井伊直虎・直政との関係
井伊谷蹂躙のについてをまとめました。

 

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武田信玄の死因は仏罰か!?

そもそも、仏罰(ぶつばち/ぶつばつ)って何!?

仏罰、聞いただけでも、あなおそろし(とっても恐ろしいを古文風に)。

迷える衆生を罪の重軽、貧富の差なく
お救い下さるはずの仏さまが、何かバチを当てるの~?

いえいえ、そうではないようです。
難しすぎるので、引用文をご覧ください。

仏罰(ぶつばち)とは、仏(如来)が悟った根本の真理に背いたために自然に蒙る(と
される)罰のこと。神罰との対比でよく誤解されているが、仏が罰を与えるのではない 。
ただし、これは仏教全体の解釈ではない(後述)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E7%BD%B0

 

 

もうひとつ、こちらもわかりやすいです。

仏罰とは仏の真理に背いた仏道修行者に対して、“自然に起きる”お仕置きである。

  http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8F%E7%BD%B0

やはり、どちらもあの広大不偏の慈愛で
われら衆生をお救い下さる御仏様が、
罰を与えるために、直接手を下されるはずがなく、
それは自然発生的なものだと説明しています。

なるほど・・・。

ではなぜ、武田信玄の死因が仏罰である、
等という説が囁かれ始めたのでしょうか?

それは、井伊直虎・直政とも深い関わりがあったから面白いです!

 

 

武田信玄の死因・仏罰説

元亀3年12月22日(1573年1月25日)に
武田信玄は徳川家康と織田信長の連合軍と戦い、大勝しています。

有名な三方ヶ原の戦いです。

三方ヶ原の戦いで完膚なきまでに
徳川軍を討ち破った武田軍は、
井伊領・刑部村に陣を張っています。

 

その後、寺社を焼き払いながら進軍し
野田城攻めを行いました。

この野田城の戦い(のだじょうのたたかい)が
武田信玄の最後の戦いとなります。

 

 

この時の野田城城主は、
井伊谷三人衆の一人・菅沼忠久の親族・菅沼定盈です。

関連記事⇒井伊谷三人衆とは小野政次を葬った男たち!井伊直虎・直政との関係は?

 

野田城は「藪の中に小城あり」と
言われたほど小さな城でしたが、
遠江浜名湖北岸に位置し、非常に攻めにくい地形でした。

 

そのため武田信玄は、水の手を切って落城させたと言います。
攻め落とすのに、1ヶ月以上もかかっています。

そして、この野田城攻めの後、
いよいよ西上作戦も
加速されていくのかと思いきや、長篠城で休養します。

この休養の最中に「鳳来寺」に立ち寄ります。

鳳来寺は愛知県新城市の鳳来寺山の山頂にある寺院で
ご本尊様は、開山の利修作とされる薬師如来様です。

 

このお寺は、平治の乱で落ち延びた
源頼朝を匿ったといわれる寺で、
徳川家康の生母・於大の方が
この寺に参篭し、家康を授かったと言われる有名なお寺です。

 

 

で、立ち寄った武田信玄は、
ご本尊の薬師如来様を拝顔したいと言いだしました。

秘仏であるため、それは出来ないという
僧たちに無理やりに薬師如来様を出させ、
よりによって、素手で触れたという言い伝えがあります。

これを見ていた僧たちが
「仏罰を受けるだろう」と言い、
それが口々に伝わり、
「信玄は仏罰で亡くなった」と言う説ができた模様です。

 

 

そして丁度この頃、
鳳来寺に匿われていたのが、
井伊直虎、後の井伊直政と言いますから
何とも因縁深いお寺です。

関連記事⇒井伊直政徳川四天王となり家康に忠義を尽くした男!養母・直虎との絆

 

武田信玄が亡くなったのは
元亀4年4月12日(1573年5月13日)です。

 

 

野田城落城が元亀4年2月16日ですから
わずか二月ほどで亡くなっています。

 

でも、でもですね、このお寺は
どうも徳川家康とご縁が深そうですね。

歴史は勝者の物ですから。

個人的には、仏罰などというものは無いと思っています。
ただ、神仏のご加護があるということは信じています。

なので、自宅の仏像や短冊も
私は決して素手では触りません。

仏罰を恐れているのではありません。
それほど、大切に思っているからです。

 

 

武田信玄の死因の病気説

武田信玄は野田城攻めの後、
持病が悪化し、長篠城で療養したが
病没した、と言う説が濃厚のようですね。

病名は
1.結核
2.胃がんなど消化器系の悪性腫瘍
3.寄生虫によるもの
があげられています。

野田城攻めの後から、度々「喀血」していた、
とありますし、20代の頃から
体調をくずすことがあった、と甲陽軍鑑に記されています。

このことから、「結核」説がもっとも当てはまります。

喀血が、結核あるいは肺がん特有の
症状であることと、
悪性腫瘍であれば、若い頃からの
発病とは考えにくいからです。

 

その点、結核であれば、
増悪・寛快を繰り返しながらも、
ある程度の健康状態を保てていたはず。

 

ところが、長引く冬の戦陣で
一気に病状が悪化した、と考えるの妥当だと思います。

 

武田信玄の死因・暗殺説

有力な死因説に、暗殺説があります。

少々眉唾ですが・・・。

暗殺説

1.鉄砲による狙撃

2.織田信長による毒殺説

1の鉄砲による狙撃説は、
野田城攻めの際、毎夜流れてくる
笛の音に魅せられた信玄が誘いだされるように
外に出た時に、鉄砲で狙い撃ちされた、という説です。

撃ちては、鳥居半四郎という
菅沼定盈配下の人物で、
信玄を撃ったという鉄砲も残っているそうです。

いかにも真実っぽいですよね!

でも、愛知県法性寺に残された碑には
「伝説」の一文字が記されています。

 

 

そして、2の信長による毒殺説ですが、
これは、どうも裏付けが少なすぎますね。

 

信長にとって信玄は不倶戴天の敵です。
さらに当時の信長は、浅井・朝倉・本願寺と
周囲を信長包囲網で囲まれていた時ですから
信玄が亡くなって最も安心したのは信長でしょう。

 

そのためにこのような説が浮上したのかもしれません。

 

 

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武田信玄は井伊直虎・直政に何をした?

わかりにくいので、年表にしました。

1521年・・・武田信玄誕生

1534年・・・織田信長誕生
      この頃、井伊直虎も生まれたといわれている。

1538年・・・今川氏真誕生

1560年・・・桶狭間の戦いで今川義元討ち死に

1562年・・・家康と信長同盟を結ぶ(清州同盟)

1568年・・・寿桂尼死去
      井伊直虎井伊谷城を追われる

      
      家康遠江進攻
      小野政次死去

1572年・・・武田信玄西上開始
      井伊谷城武田重臣・山県昌景に奪われる
      直虎浜松城へ逃げる

1573年・・・三方ヶ原の戦い
      武田信玄死去

この三方ヶ原の戦いの後、
野田城攻めの前に井伊谷を蹂躙したのが山県昌景です。

龍潭寺もこの時に焼き払われています。

 

 

ただ、龍潭寺が焼き払われる前に、
井伊直虎は寺の重要文化財などを
運び出していたため、難を逃れた
ご仏像も多くあったと言います。

さすが、尼御前ですね。

さらに、井伊谷の住民たちには
貴重品を土中に埋めよと命じていたといいます。

 

このあたりも、民と共に生きた
直虎の生き方が良く伝わる話ですね。

山県正景ら武田軍は、
次々と神社仏閣を焼き払い進軍しています。

これでは、信玄の死が「仏罰」と言われても仕方がありませんね。

その後の大きな事件としては

1579年・・・瀬名姫(築山殿)死去

1575年・・・井伊虎松・直政と改名し徳川家康の小姓となる

1582年・・・武田家滅亡
      本能寺の変で織田信長死去
      井伊直虎死去

1600年・・・関ヶ原の戦い

1602年・・・井伊直政死去

 

 

まとめ

武田信玄の死因については、
仏罰説・病死説・暗殺説があります。

 

この中で最も有力な説は
病死説ですが、仏罰説・暗殺説には、
人の心が映し出されていて、興味深いです。

しかもそのお寺に、
後の井伊直政が居たとは・・・。

なお、武田信玄、武田軍が
いかに井伊谷を蹂躙したか、
龍潭寺まで焼き払うとは、
仏罰も当たるかな~~!

本当に苦労の連続でしたね、井伊直虎は。

けれども、養子の井伊直政は
徳川家康の元で活躍します。

武田信玄没後、武田家は十年持たずに滅亡します。

儚いですね。

では、本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

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