瀬戸方久が堀川城主になる?生涯と子孫、大沢基胤との関わり!

出典:https://www.instagram.com/

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で
経済面で直虎を支え続けた瀬戸方久(せと ほうきゅう)
キャストはムロツヨシさんですね。

ドラマでは‟あばら家の男”として
登場した瀬戸方久ですが、
実在の人物であり、波乱万丈な生涯をおくります。

 

瀬戸方久の生涯をサクッとまとめ、
子孫や墓はどこにあるのか、
大沢基胤とのかかわりを調べました!

 

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瀬戸方久の生涯をサックリまとめ!

 

瀬戸方久生誕から井伊直虎との関わり

瀬戸方久は、大永5年(1525年)に生まれています。

井伊直虎が天文3年(1534年)前後の
生れではないかと言われていますので、
直虎より10歳前後年上だったと思われます。

 

先祖は南北朝時代に活躍した
新田義貞の一族、新田四郎義一の末裔です。

以外に、由緒正しいですね。
祖先は武家だったのですね。

 

天文15年(1546年)に
祝田村に住んだといわれていますから
直虎とはこの頃に縁を結んでいるはずです。

 

瀬戸方久が21歳頃、
直虎が10歳から12歳頃、というところでしょうか。

 

直虎との関わりが深くなったのは永禄9年からです。

瀬戸方久は、この頃にはすでに、
井伊谷一帯で高利貸し(金貸し)をしていたようです。

大河ドラマでは「銭の犬」などといわれ、
金儲けに対する嗅覚の鋭さが
尋常でない人物として描かれています(笑)。

 

個性的で、金貸しなのに
どこか憎げがないキャラクターですよね!

 

今川氏真が瀬戸・祝田村に
徳政令を発布するよう命じましたが、
これを発布すると金貸しの方久は
借金を帳消しにされてしまい、大損をしてしまいます。

 

そこで、井伊直虎とタッグを組むことになったのです。

 

井伊直虎は、
徳政令の発布を二年間遅らせることに成功します。

この二年間を利用して
瀬戸方久は今川氏真に近づき
自身の田畑や屋敷を徳政令の
対象外にすることに成功しています。

 

 

瀬戸方久は、
直虎に経済的支援を続けながら
政策面では、直虎を介して
今川家と上手く関係づくりをした、という事のようです。

 

 

同じ永禄9年に
直虎が福満寺(渋川村)に
祖父・直平の供養のために
梵鐘を建立した際にも、
瀬戸方久が資金援助をしています。

 

 

瀬戸方久が堀川城主になる!?大出世!!

瀬戸方久は今川氏真に取り入り、
刑部城・堀川城の普請費用を請け負います。

 

そしてついには、
堀川城主(浜松市北区細江町気賀)
となり、名も先祖の新田氏を名乗ることになります。

新田四郎右衛門または、新田喜斎と名乗ったといわれています。

 

 

大河ドラマ「おんな城主直虎」では
気賀の堀川城主には、
直虎が納まりそうですが、
結局のところ、方久に城代を務めさせた風に描くのでしょう。

 

 

一介の商人から、高利貸しへ。
井伊直虎と手を組み財をなし、
時勢を見て、今川氏真とも懇意にする。

 

果ては、先祖の姓・新田氏を名乗り
堀川城主にまで上り詰める。

 

本当に大出世!
アッパレな才覚としか言いようがありません!

 

瀬戸方久と大沢基胤との関わりは?

せっかく堀川城主になった瀬戸方久。

しかし、永禄11年(1568年)
瀬戸方久が43歳の時に、
徳川家康が堀川城へ攻めて来ました。

遠江へ侵攻してきた家康に対し
堀江城主であった大沢基胤は、
反徳川の態度を鮮明にします。

 

一方、時勢を見抜く眼は
誰よりも鋭い新田四郎右衛門/瀬戸方久です。

いち早く、徳川家康へ恭順の意を表し、
道案内役を引き受けます。

それもそのはず、
方久は元々、井伊直虎の息のかかった人物。

それに引き換え、
大沢基胤は、根っからの今川家家臣です。

 

 

結局、瀬戸方久は
徳川家に叛旗をひるがえす者が多い
堀川城を去り、尉ヶ峰の山中に庵を結び隠棲します。

 

 

瀬戸方久が軍資金を出し
普請をした堀川城は、
永禄12年3月、徳川家康により攻め落とされます。

前年、堀川一揆で
手ひどい目にあった家康は、
城兵を皆殺しにしたといいます。

いつも言いますが、
歴史は勝者の物です。
後の天下人・徳川家康の殺戮は
あまり表立っていませんが、
この堀川城攻めでは、千数百名が命を落としたようです。

 

 

瀬戸方久の子孫は怨霊となった!?

瀬戸方久に実子はいませんでした。

しかし、神立村神明社の神主・蒲氏から
養子を取っています。

財も成し、城主にもなり、名も挙げた。

後は後継のみ、というところでしょうか。

しかし、新田乙若丸
名乗らせていたこの養子は、
方久が徳川家康に肩入れすることを
快く思っていなかった竹田氏に毒殺されてしまいます。

 

 

どうも、瀬戸方久は、
新田四郎右衛門と名を改めてからの人生は不遇です。

気のせいでしょうか?

 

若くして毒殺された乙若丸は、
その後怨霊と化し里人を苦しめたのでしょうか?

 

これを恐れた里人らは
呉石山に乙若丸の供養の社を建立しています。

 

 

血は繋がっていませんが、
家紋の跡を継がせようと
引き取った養子を殺され、
瀬戸方久も無念なことだったでしょう。

 

これなら、商人のままでいた方が
幸せだったかも知れませんね。

結局、瀬戸方久の子孫は残りませんでした。

 

 

瀬戸方久はどこに眠っているのか?

尉ヶ峰の山中に庵を結び
静かに暮らした瀬戸方久。

その後、気賀宿近くの呉石で余生を過ごします。

瀬戸方久は最晩年、
気賀村を代表して、訴状をしたためます。

その訴状が不当であるとして、
慶長11年(1606年)、
気賀の地頭・石川半三郎により処刑されます。

法要は龍潭寺で行われ、
位牌も龍潭寺が預かっているということです。

 

 

龍潭寺は井伊家の菩提寺です。
瀬戸方久が、井伊家と直虎に
いかに貢献した方であったかが偲ばれますね。

 

 

享年81歳

 

 

波乱に満ちた生涯でしたが、
直虎と共に井伊家の危機を乗り越え
自身も今川の徳政令から逃れ
城主に上り詰めた頃が一番幸せだたかも知れませんね。

 

墓所は智足院(静岡県浜松市)にあります。

 

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まとめ

瀬戸方久は、新田一族の後裔として
1525年に生まれています。

 

井伊家の庇護を受けて
豪商となり、以後井伊家の財政を支えていきます。

 

時勢を見る目に優れ、
今川氏真や徳川家康に取り入ります。

 

徳政を逃れた瀬戸方久は
堀川城主となりますが、
徳川家康に恭順したことで、
今川家臣・大沢基胤や竹田氏の反発を買います。

 

 

堀川城を去り隠棲しますが、
その後、呉石に移り住み
最後は地元住民のために書いた
訴状が元で処刑されてしまいます。

 

 

享年81歳と長命ですが、
養子は毒殺され、子孫は残っていません。

 

 

波瀾万丈の生涯、
2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で
一躍脚光を浴びていますね。

どんなお気持ちでおられるのでしょう?

ではでは、本日も最後までお読みいただき有難うございました。

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