井伊谷三人衆とは小野政次を葬った男たち!井伊直虎・直政との関係は?

onnajyousyunaotoraiikekamonntatibana

井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)とは、
近藤康用(こんどうやすもち)、
菅沼忠久(すがぬまただひさ)、
鈴木重時(すずきしげとき)の三人のことをいいます。

井伊谷三人衆は、東三河・浜名湖の沿岸部を領する領主です。
井伊家と同じく桶狭間の戦いの後も
今川氏に忠節を尽くしていました。

そんな井伊谷三人衆が
井伊直虎・直政にどのように関わっているのでしょう?
そして、井伊家家老・小野政次(道好)との関わりもまとめました。

 

Sponcored Link

井伊谷三人衆とは?

菅沼 忠久(すがぬまただひさ)とは

生年は不詳です。

菅沼元景の子で都田菅沼の3代目として生を受けます。
正室は同じ井伊谷三人衆の鈴木重時の娘です。

なので、菅沼忠久と鈴木重時は義理の親子です。
そして、徳川家家臣で野田城主・菅沼定盈は一族にあたります。

 

桶狭間の戦いの後、
忠久は井伊氏の被官となっていましたが、
永禄11年(1568年)徳川家康の
遠州攻めの際に、菅沼定盈から
今川家離反の誘いを受け、これを承諾しました。

 

永禄11年だということを、
心にお留め置きくださいね!

そして、菅沼忠久が三人衆の残る二人、
鈴木重時と近藤康用を今川から離反して
徳川方に付くことを誘ったのです。

 

忠久は徳川家康の遠江攻めで、
1569年の堀江城攻撃に参戦しています。

後に家康の命令で井伊直政の家臣となります。
しかし、天正10年(1582年)に亡くなっています。

 

天正10年と言えば、武田家が滅亡し
織田信長が本能寺で横死した怒涛の年ですね!
亡きがらは、龍潭寺に葬られたといわれます。

 

家督は子の忠道が継ぎ直政に仕え、
関ヶ原の戦いで功を挙げたといわれています。

 

鈴木重時(すずきしげとき)とは

享禄元年(1528年)に生まれたとされています。
姉が井伊直満の妻であったといわれています。

そうです、小野政直の讒言により
今川家より自害させられた井伊直満です。

 

したがって、井伊直親は鈴木重時の甥にあたります。

さらに、重時の正室は奥山朝利の娘です。

 

井伊家の被官として、
今川家からのお目付け役の役割をしますが、
心情はいかばかりだったでしょうね。

 

義兄と甥が今川家により誅殺されていますから・・・。
内心は今川家や小野政次のやり方に
快くない思いはあったのではないでしょうか。

 

そして、今川から徳川家康への
寝返りを決めた娘婿の菅沼忠久から、
今川離反の誘いを受けこれを承諾します。

 

徳川家康の遠州攻めに参加し
永禄12年(1569年)の堀江城攻めの際に戦死します。

 

享年42歳と伝えられています。

 

 

鈴木重時自身は、あっという間に亡くなりますが
重時の子・重好がその後井伊直政に仕えています。

 

近藤康用(こんどうやすもち)とは

近藤康用は、永正16年(1517年)に生まれています。

父・忠用と共に今川氏に従属し、
桶狭間の戦い後も鈴木重時に同調し
今川家に臣従を誓っていました。

しかし、鈴木重時・菅沼忠久と共に
家康の懐柔工作により今川家を離反します。

 

家康が遠州に攻め入った永禄11年(1568年)には
長年の戦働きで歩くことすら困難であったといわれています。

そのため、子の秀用(ひでもち)が従軍しています。

天正16年(1588年)井伊谷で72歳で亡くなっています。

 

 

井伊谷三人衆~小野政次(道好)を葬る

桶狭間の戦いの後の井伊家と小野政次

桶狭間の戦いで今川義元が討たれ
今川方として従軍していた
井伊家の当主・井伊直盛も命を落とします。

 

井伊直盛は遺言で養子の井伊直親を当主とし
それを補佐するものとして、井伊家譜代家臣
中野直由に任せるように指示していました。

 

井伊家には父・政直の跡を継ぎ
家老を務める小野政次(道好)が
いましたが、直盛は自分が亡くなった後の
井伊家の舵取りを、養子・直親と中野直由に任せたのでした。

 

これは、直親の父・直満が
政次の父・政直の讒言(告げ口)により
今川家から誅殺された経緯があることから、
井伊家内での小野政次の力を削ぐための
直盛の苦肉の策であったのでは、といわれています。

 

父・政直の時代から
井伊家内部の小野家に対する風当たりは
相当強いものだったのではないかと推察されます。

 

さらにこの桶狭間の戦いの後、
長く今川家の人質として暮し、
桶狭間でも今川方の将として
出陣していた松平元康(徳川家康)が
今川から独立し、織田信長と同盟を結んだのでした。

 

これを機に、今川家から離反する
国人たちが後を絶たず、
今川家は衰退に歯止めをかけようと
躍起になっているところだったのです。

 

そのような時に、小野政次は
今川氏真(義元亡き後の今川家当主)に
井伊家当主・直親が徳川家康と内通の疑いあり
と報告(?)したのでした。

これが、讒言だったのか、
井伊家の家老として
井伊家を守ろうとして行った行為だったのか・・・。

 

NHK大河ドラマおんな城主直虎では、
小野政次を高橋一生さんが演じられています。

素晴らしい俳優さんで、
政次の井伊家での立場の危うさや
微妙な感情の揺れを見事に演じておられます。

 

ついつい肩入れして観てしまうのですが、
やはり、小野政次の言葉が元で、
直親が今川氏真に誅殺されることになりますからね。

 

どちらにしろ、このことが原因で
井伊直親は申し開きをするために
駿府の今川氏真の元に向かいます。

そして、その道中、
掛川で今川家家臣・朝比奈恭朝の軍勢に
誅殺されてしまいます。

 

永禄5年(1562年)の出来事でした。

小野政直は井伊直満を死地に追いやり、
息子・小野政次(道好)もまた、
直満の子・直親を死地に追いやりました。

 

 

この後小野政次は今川氏真の命令で
直親の嫡男・虎松(井伊直政)をも
亡き者にしようとしますが、
これは、新野左馬之助(親矩)
命がけの助命嘆願が聞き入れられ、死を免れています。

 

新野左馬之助は先代当主・直盛の妻
祐椿尼の兄で、井伊直虎の叔父にあたります。

このことは井伊家1000年の歴史の中で
最も優れた功績と評価されています。

 

 

井伊直虎を陥れる小野政次

井伊虎松(直政)の助命と引き換えに
井伊直平・中野直由が戦に駆り出されます。

 

そして、直平が病死(毒殺という説もある)し
中野直由、新野左馬之助(親矩)も戦死してしまいます。

 

井伊家ではこれまで舵取りをしてきた
男たちが次々と亡くなり、
残ったのは今や幼い虎松とその実母、
次郎法師(直虎)と祐椿尼という状況。

家老の小野政次が井伊家内を思い通りに操れる状態でした。

 

そこに立ちはだかったのが
龍潭寺の南渓和尚でした。

井伊直盛の娘で龍潭寺の僧となっていた
次郎法師を還俗させ、井伊家の領主とします。

次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗ります。
おんな城主とも、女地頭とも呼ばれた直虎の誕生です!

永禄8年(1565年)でした。

 

 

これにより、井伊直虎は、
女地頭(大名に至らない領主)として
地域の支配権を持つことになりました。

おんな城主となった井伊直虎に
今川氏真は小野政次を通じて徳政令を出すよう命じます。

 

徳政令とは、「借金を返さなくても良い」という
命令で、一見借金がチャラになるので
助かるように見えますが、
実は経済的には大混乱をきたすことになります。

 

お金を貸したほうは返済してもらえず大打撃。

お金を借りた方は、一時的には助かりますが
再びお金を借りようとしても貸して貰えないため
結局は生活が行き詰まってしまう。

 

この頃相次ぐ戦乱や普請のために、
井伊谷の住民たちは経済的に困窮していたと言います。

そこで、直虎は徳政令の発令を
何とか引き伸ばし、貸主の被害が最小限に
留まるように策を討ちます。

これにより、龍潭寺や金貸しの商人たちは
徳政令免除の措置を受け保護されることができました。

井伊谷は徳政令の被害を
最小限に食い止めることができたのです。

 

小野政次は直虎に対し
徳政令の施行を再三にわたり迫ります。

結局、永禄11年(1568年)11月に徳政令が施行されます。

そうです、永禄11年です!

 

徳政令を発令したことにより直虎は地頭を罷免されます。

統治能力がないとみなされたようです。

小野政次の狙い通りとなりました。

小野政次が井伊直虎を陥れて
井伊谷城を奪い、領主の座を手に入れたということです。

 

 

どんな気持ちだったでしょうかね?
父の代からの念願だったでしょうから、
やり遂げた感で胸いっぱいだったでしょうか?

 

それとも、主家を裏切って
陥れたことに一抹の胸の痛みを感じていたのでしょうか。

政次の胸を打ちを知る史料があると良いのですが!

 

井伊谷三人衆、小野政次を葬る

念願かなって井伊谷の領主の座を手に入れた小野政次。

しかし、黙っていなかったのが井伊谷三人衆でした。

井伊谷三人衆と後に称される
菅沼忠久、鈴木重時、近藤康用の三人は
この事を徳川家康に報告します。

徳川家康の懐柔策により
今川家を離反した三人衆ですが、
元々は忠義心の強い武将たちだったのだと思います。

何故なら、今川義元討ち死にの後も
今川家を見捨てず忠節を尽くしていますから。

けれども、今川氏真や
小野政次の行いを間近で観て、腹に据えかねたのでしょう。

 

井伊谷三人衆は徳川家康が
井伊谷城を攻めるときに道案内を買って出ています。

地理に明るい武将たちが支援したのですから
攻め手は楽勝だったでしょう!

 

徳川家康は永禄11年12月から遠江侵攻を開始、
12月13日には井伊谷城を攻め、
小野政次ほか城兵は戦わずして逃走します。

小野政次は直虎が地頭職を解任されてから
わずか34日で、手に入れた井伊家領主の座を
手放すことになりました。

 

小野政次は井伊谷三人衆に葬られた、
と言っても過言ではありません。

なぜなら、いかに徳川家康であろうとも
井伊谷三人衆の働きが無ければ
こんなに早く井伊谷城奪還は、困難だったでしょうから。

さらに、逃亡した小野政次の
処刑を進言したのも井伊谷三人衆だといわれています。

武士として、切腹、自害ではありません。

 

永禄12年(1569年)4月7日
事実無根の讒言をしたかどで
小野政次は磔の刑に処されます。

 

関連記事⇒小野政直・政次は井伊家家老なのになぜ直虎を陥れた?子孫はどうなった

Sponsored Link

 

井伊谷三人衆と井伊直政との関係。子孫はどうなった?

 

今川滅亡と信玄の死

永禄12年(1569年)5月
徳川と武田に攻められた今川家が
ついに滅亡します。

 

掛川城に籠城していた今川氏真が
家臣の助命と引き換えに開城し
これにて、今川家は大名の座から陥落します。

ちなみに掛川城主・朝比奈康朝は
氏真の命を受け、井伊直親を誅殺した人です。

その後、徳川家康は三方ヶ原の戦いで
武田信玄に手痛い敗北を喫します。

井伊谷も焼け野原になりますが
元亀4年(1573年)武田信玄の病死により
武田軍の撤退、家康は領土回復を図ります。

 

 

小野政次亡き後の井伊家はどうなった?

この後、井伊谷は井伊谷三人衆が支配することになります。

 

龍潭寺も武田軍の侵攻で
一旦は消失してしまいます。

井伊直虎・直政の故郷も
戦火に焼かれることになったのです。

 

でも、生きのびてこそ、ですよね。

天正2年(1574年)12月14日
再建された龍潭寺で
井伊家の23代当主・井伊直親
直政の父の13回忌が行われることになります。

 

この時に鳳来寺に身を寄せていた
虎松(井伊直政)と実母(奥山朝利の娘)を
龍潭寺に呼び戻します。

 

ここから、井伊直虎と龍潭寺・南渓和尚の尽力で
虎松(井伊直政)は徳川家康の目に留まり、
天正3年(1575年)徳川家への出仕が決まります。

そして、徳川家康の小姓となった虎松は
家康から万千代という名を賜ります。

ここで、おんな城主・井伊直虎は、
井伊万千代(虎松・井伊直政)に
当主の座を譲ったのです。

もっと色々ありますが、書ききれない部分はご容赦くださいね!

 

 

24代井伊家当主となった井伊万千代(直政)は
徳川家で異例のスピード出世を遂げていきます。

関連記事⇒井伊直政徳川四天王となり家康に忠義を尽くした男!養母・直虎との絆

 

 

井伊谷三人衆と井伊直政のその後の関係

近藤康用の子孫と井伊直政

井伊谷三人衆の一人、近藤康用の子です。

家督を継い秀用は、長政と共に
小牧長久手の戦いなどで武功を挙げます。

けれども次第に井伊直政との
折り合いが悪くなり出奔してしまいます。

主家の元から出奔した秀用を
家康は許しませんでした。

しかし、直政の死後、徳川秀忠に仕え
後に井伊谷1万5千石の大名となります。

秀用が亡くなった後
所領を3人の息子に分け与えたため、
大名の体をなすことができず、
以後徳川家の旗本として、家名は続いていきます。

菅沼忠久の子孫と井伊直政

菅沼忠久は井伊直政に仕えますが
1582年に死去しています。

跡を継いだ忠道は、直政と共に
小牧長久手の戦いなどで勇名を馳せますが
1603年に亡くなっています。

 

家督を継いだ勝利は、
大阪の陣で活躍しますが
後に徳川家の旗本として存続していきます。

 

 

鈴木重時の子孫と井伊直政

鈴木重時は堀江城攻めで亡くなってしまいます。

家督を継いだ鈴木重好は、
関ヶ原の戦いの戦後処理において
長曾我部家の領土で一揆が勃発するなど
不祥事が相次ぎ、井伊家を退去しています。

その後1618年に、徳川秀忠の命により
水戸徳川家に仕えることとなり
以降水戸徳川家家老として名を馳せることになります。

 

まとめ

井伊谷三人衆とは
近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時
の三人を称します。

3人は井伊家の被官でしたが
桶狭間の戦いの後
衰退していく今川家から離反し
徳川家康へつくことを決めます。

井伊家第23代当主・井伊直親が
小野政次の讒言により誅殺されると、
井伊家は寺に入っていた直虎を還俗させます。

 

おんな城主となった直虎は、
小野政次に徳政令で追い詰められ
結局は罷免されてしまいます。

 

一度は小野政次に奪われた
井伊谷城ですが井伊谷三人衆の働きにより
小野政次は城を明け渡すことになります。

 

井伊谷三人衆により、
井伊直親が小野政次の讒言により
誅殺されたことが徳川家康に知らされます。

これにより、小野政次は磔の刑に処されます。

 

武田信玄の西上により、
一旦は消失した井伊谷の里も
龍潭寺も信玄死亡・武田軍撤退により
再建されていきます。

 

寺で匿われたいた?(諸説ある)
井伊虎松(直政)は、父・直親の
13回忌で漸く龍潭寺に戻り、
徳川家に仕官することになります。

その後は異例のスピード出世を遂げます。

 

 

井伊谷三人衆の子孫たちも
井伊直政の元で働きますが、
彼らの子孫は皆、その後直政の元を去っています。

 

自分にも家臣にも厳しかったといわれる直政。
理由は諸説あるようです。

 

しかし、井伊谷三人衆の子孫は
徳川家の旗本や水戸徳川家の家老など
立派に命脈を保っています。

 

井伊谷三人衆は先を観る眼が確かだったということでしょう。

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました。

Sponsored Link

Sponsored Link

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ