井伊直政徳川四天王となり家康に忠義を尽くした男!養母・直虎との絆

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井伊直虎・幼名虎松は、
井伊家の後継として
永禄4年2月19日(1561年3月4日)に生を受けました。

しかし翌、永禄5年に父・直親が殺害されてしまいます。
決して平たんな道のりではなかった直政の生涯。

直政の生涯をサックリとみつつ
養母・直虎との絆や家系図
後に仕えることになる
徳川家康との関係や四天王と呼ばれた所以を探ります!

 

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井伊直政の生涯と養母・直虎との強い絆!

井伊直政の生涯~家康の家臣となるまで

永禄4年2月19日(1561年3月4日)
井伊家がまだ今川家の家臣であった頃に産まれています。

幼名は虎松(とらまつ)

父は井伊直親。
NHK大河ドラマでは、三浦春馬さんが演じられています。

虎松がわずか2歳の時に
父・直親は徳川家に内通したとして
謀反の疑いをかけられ、今川氏真に殺害されてしまいます。

関連記事⇒小野政直・政次は井伊家家老なのになぜ直虎を陥れた?子孫はどうなった

 

この時に当時、次郎法師として
龍潭寺に入っていた直虎が還俗し
井伊家の当主・女城主となり幼い虎松を後見することになります。

虎松自身も、今川家に命を狙われますが、
新野親矩が助命嘆願したことにより救われます。

これ以後直政は、新野親矩の元で
実母・ひよと共に暮らします。

 

しかし、永禄7年(1564年)
新野親矩が討ち死にしてしまいます。

 

これ以降は、親矩の妻が育てたとも
祖母にあたる祐椿尼(前当主・直盛の妻)に育てられたとも
実母・ひよに育てられたとも、諸説あります。

 

おそらくこの周囲の女人たちに
見守られて、かろうじて命脈を繋いでいたのでしょう!!

本当に数奇な運命ですよね!

でも、危機はまだまだ続きます!

 

井伊家家老である小野但馬守政次により
命を狙われてしまいます。

もちろん、今川家の指示によるものとされています。

 

こうして永禄11年直政は出家し
浄土寺、そして鳳来寺に入ります。

 

天正12年(1574年)直政が
父・直親の13回忌で龍潭寺を訪れます。

 

この時に、龍潭寺の南渓和尚、直虎、
祐椿尼、ひよ、が相談の上、
直政を徳川家康に仕えさせようということになります。

 

井伊家伝記によれば、
政直の徳川家仕官のために
実母・ひよが、まず松下源太郎に再稼し、
政直を養子にします。

その後、直虎の計らいにより
政直は家康の目に留まり、
徳川家に仕えることになります。

 

 

井伊政直の生涯~徳川家康に仕えてから

天正3年(1575年)政直は
幼名・虎松を万千代と改め、
家康の小姓として取り立てられます。

そしてこの時、旧領の井伊谷の領有を認められたといいます。

ようやく晴れて井伊谷が井伊家の元に還ったのです。

 

 

天正10年(1582年)

万千代(直政)は、この時代の方としては
めっぽう遅い年齢の22歳で元服しています。

そして、家康の養女・松平康親の娘・花(家康養女)と結婚します。

 

この年に起こった本能寺の変では、
家康と共に伊賀越えをしています。

徳川家康の人生で、三方ヶ原の戦いと並ぶ
大難・伊賀越えです!!

この伊賀越えでの直政の働きぶりに感服した家康は、
褒美として孔雀の羽で織った陣羽織を与えたといいます。

自らの陣羽織を与えるなど、よほどの働きぶりだったのでしょう。

 

家康人生の最大の危機に最高の働き。
波乱に満ちた生涯ではありますが
何かに守られて、運が開けていきます!

 

徳川家康が天下を手にするまでの
数々の苦難・紆余曲折を共に駆け抜けた直政。

井伊家主従にとってそれはどんなに命がけの連続だったことでしょう!

これまでの、高天神城の戦いの戦功、
伊賀越えに次ぎ、
天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いに参戦します。

この時から、直政は軍装を赤備えにしています。

 

武田の兵法を引き継ぐ旧臣を率い、
赤い鎧に鬼の兜、長槍を振り回し
敵陣に襲い掛かる姿から、
井伊の赤鬼と恐れられるようになります。

 

この時の戦功で加増され
井伊谷6万石に取り立てられています。

 

 

そしてこの猛者ぶりを、
豊臣秀吉にも大そう愛され、
天正14年、従五位下に叙位され、
豊臣姓を賜るなどの破格の待遇を与えられています。

 

 

政直は外交手腕にも長けており、
慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去すると
豊臣方の武将との交渉役を引き受けます。

 

黒田孝高・長政親子と盟約を結び、
これにより、その他の武将も親徳川に
引き入れることに成功しています。

 

 

そして、直政にとって最後の戦い「関ヶ原」

本戦では、福島正則が先陣と決まっていましたが
井伊直政と松平忠吉隊が抜け駆けをした、
ということになっています。

しかし、徳川家康からみれば、
先陣が豊臣恩顧の大名では、後々が心配ですよね。

こういうことをみても、
直政と家康は、肝胆相照らす主従だったのでしょう。

この関ケ原の戦いまで、57回も戦に出陣し、
数々の手傷を負った直政。

いつも先陣を駆け抜け、その勇猛さで出世街道をまっしぐら!

 

関ヶ原の戦いでも、
的中を突破し退却しようとする
島津軍を追撃し、あと一歩で島津義弘を
討ち取ろうとしたその時、
島津軍が撃った砲弾が右ひじ関節に命中し落馬

重傷を負います。

重傷を負ったにもかかわらず、
戦後は西軍の総大将・毛利輝元との交渉や
江戸幕府の基礎固めに尽力します。

そして、慶長7年(1602年)2月1日
関ヶ原で負った傷が癒えないままに
42歳でこの世を去ります。

 

 

井伊直政と養母・直虎との深い絆

井伊直政は、幼くして寺に入りますが、
その傍には実母・ひよや祖母の祐椿尼、
そして、養母・直虎がいました。

 

直政が家督を継げるようになるまで、
直虎が当主として井伊家を守ったからこそ、
井伊は家名を残すことができたのです。

それを誰よりも身に沁みて知っているのが直政でした。

 

何故なら、直政が元服したのは
直虎が亡くなったのは天正10年8月26日です。

その3か月後の11月に
直政は家康の勧めもあり、22歳で
ようやく元服しています。

 

そして、本能寺の変の際の伊賀越えで
家康から褒美を賜った際には、
直虎がこれを聞いたら、どんなに喜んでくれただろうか
と涙をこぼしたと伝わっています。

 

この逸話からも、直政にとって
いかにおんな城主直虎の影響が
強かったかがうかがい知ることができます。

以下に、井伊家の家系図を載せます。

おんな城主直虎にとって、
直政は実子ではありません。

その父・直親とは許嫁でありながら、
運命のいたずらで夫婦になることはありませんでした。

けれども直虎は、生涯独身を守り
井伊家の危機にはいつも命を賭して立ち向かう
おんな城主でした。

直政は、その直虎の姿を間近で観て育ち、
多大な影響を受けて成長したといえます。

血が繋がった親子以上の絆を感じますね。

 

井伊家の家系図

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引用元:http://thats-entame.xsrv.jp/naotora/entry33.html

 

井伊直政の長男・井伊直勝は
病弱だったとも、家督を継ぐ能力が
なかったともいわれていますが真相はわかりません。

次男の井伊直孝が彦根藩主として後を継いでいます。

桜田門外の変で有名な井伊直弼は
井伊家第34代です。

 

 

 

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井伊直政と徳川家康

 

 

井伊直政は徳川家康の寵童だったといわれています。
この時代では珍しい事ではないでしょう。
しかし、真実かどうか話不明です(笑い)
けれども、家康は男色家ではなかったようですよ!

 

ただ一点言えることは
家康と直政の幼い頃の境遇が似ているということです。

 

家康は、幼い頃から織田家に人質に取られ
その後は今川家の人質として十数年の長きにわたって
苦労を強いられています。

そして家康の家臣・特に岡崎衆は
今川家による悲惨な仕打ちに耐え続けていました。

 

 

井伊家もまた同じです。
直政も同じように、今川の手から逃れ
出家し、家康の小姓となるまで寺で匿われています。

井伊家の家臣も共に
長く忍従生活が続いたことでしょう。

このように、境遇が似ているせいか
お互いの気持ちがよくわかったのでしょうね。

 

それに、井伊家は家康の最初妻・築山殿と縁がある家です。
どんな理由があったかはわかりませんが
自分の命令で命を絶った築山殿や
我が子・信康に対する思いもあったのかもしれませんね。

関連記事⇒瀬名姫(築山殿)が家康に殺害された事件の真相と呪いが恐すぎる!

「徳川実記」には、
直政の働きは家康が幕府を開くにあたっての
一番の功労者であると記されています。

徳川四天王とは?

徳川家中の中でも
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政
この4人が徳川四天王と呼ばれる方々です。

井伊直政だけが徳川譜代の家臣ではありません。

年齢も酒井忠次とは親子以上
34歳も離れています。

 

直政のとんとん拍子の出世に対し、
周囲の目はかなり厳しいものだったようで、
そのため直政は、自分にも部下にも
常に厳しい態度であったようです。

家康と共に数々の戦場を駆け巡り、
一度も手傷を負わなかった本多忠勝と比べ
いつも負傷していたという直政

それは、いつも先陣を切って
決死の戦いをしていたからだともいえます。

家康はその忠義を高く認めたからこそ評価が高かったといえます。

まとめ

井伊直政は井伊直親の長男として生を受けます。

しかし、僅か2歳で父を亡くし
それからは、実母、養母・直虎、祐椿尼などに
支えられて生育します。

おんな城主となって
井伊家を守る直虎の姿を間近に見て
育ったといえます。

その後、徳川家康の小姓に上がってからは
数々の戦功を立て、とんとん拍子の出世を遂げていきます。

敵には井伊の赤鬼と恐れられ
徳川家では、四天王と呼ばれ
徳川幕府の礎を築くことに尽力します。

関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が癒えぬまま
42歳という短い生涯を閉じますが
子孫は幕末まで続き、大老を4名も輩出した
家柄となります。

直虎の想いは叶ったのです。

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました!

 

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