太原雪斎は徳川家康の師だった?今川義元を太守に押し上げた人物!

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太原雪斎は今川義元が家督を継ぎ
今川家の太守となることに尽力した人です。

そしてまた、織田家との人質交換により
松平竹千代(後の徳川家康)を今川家の人質として取り戻しています。

徳川家康は、幼き頃より
太原雪斎の英才教育を受けたのでしょうか?

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」のキャストは
佐野史郎さんです。

風格出て来ましたよね。

 

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太原雪斎、今川義元を太守の座に据える

太原雪斎と今川義元の出会い

太原雪斎は明応5年(1496年)
庵原城主・庵原政盛を父、
興津横山城主・興津正信の娘を母とし
この世に生を受けました。

父方・母方、両家共に
今川家の譜代の重臣でした。

駿河の善得院(現・臨在寺)で出家し
九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗っていました。

 

一方の今川義元は、
永正16年(1519年)、今川氏親の五男として生まれます。

太原雪斎と今川義元は、23歳ほど年齢が違います。
親子ほど離れていますね。

 

今川義元は、五男ですから
この時すでに、今川氏の後継者は
同母兄の氏輝に決まっていました。

このため、今川義元は4歳の時に仏門に出されたのです。

今川義元は、この頃に善得寺において
太原雪斎と出逢い、その教育を受けたといわれています。

‟三つ子の魂百まで”

といいますから。

後に今川義元は‟海道一の弓取り”と称されますから、
如何に太原雪斎の教育が優れていたか推し測ることができますね。

 

その後二人は、京都五山の建仁寺で
修業を積みますが、太原雪斎の頭脳明晰・秀才ぶりが噂になっていたと言います。

 

この噂を耳にした当時の今川家領主・今川氏親が
駿河に帰り今川家に仕えるよう要請したそうです。

 

 

こうして、天文4年(1535年)、
善得寺の住持・琴渓承舜の7回忌法要のために
太原雪斎は駿河に戻り、善得寺に入ったのです。

 

太原雪斎、寿桂尼と協力し、義元を太守に押し上げる

この項目の最初に述べているように
今川義元は、先代・今川氏親の五男です。

今川家ではすでに後継者が決まっており、
大永6年(1526年)に、氏親が亡くなった後は
氏輝が後を継いでいました。

 

ところが、天文5年(1536年)、氏輝が亡くなり、
同じ日に氏輝の後継者でもあった、次の弟・彦五郎も亡くなっています。

 

どうも、陰謀の匂いがしませんか?

同じ日に現当主と家督を継ぐべき人が亡くなるなんて!?

 

ここから今川家はひと悶着あるのです。
ご多聞に漏れず、家督相続争いです!

 

なんかワクワクしますね!
不穏、だーい好き!(きりちゃんみたい(笑))

 

その頃、承芳と名乗り僧籍にいた義元は
重臣たちに乞われて還俗することにします。

時の征夷大将軍・足利義春から偏諱を賜り
義元と名乗ることになります。

 

 

ところが、家督相続はスンナリとはいかなかったのです!

 

有力家臣・福島氏が、
自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を当主にしようと企てます。

花倉の乱です。

この時、太原雪斎がまず行ったことは、
生母である寿桂尼と協力し、多数派功策を行います。

福島氏は、今川館に攻め寄せますが、
太原雪斎他、義元側の家臣団が奮戦し、持ちこたえます。

後北条氏の支援を取り付けた義元側は
勢いを盛り返し、異母兄・玄広恵探は自害します。

 

これにより、花倉の乱は終息。

名実ともに今川義元は家督を継ぎ、今川家太守となります。

本来であれば、五男ですから
家督を継ぐことなど、考えられなかったでしょう。

しかし、人生何が起こるかわかりませんね。

義元が幼き日に太原雪斎に出逢い、
師として教育を受けていなければ、
この日は来なかったかもしれません。

 

 

その後の太原雪斎の活躍

今川義元が家督を継いだ頃、
周囲には、上杉謙信・武田信玄・北条氏康など
名だたる強国が渦巻いていました。

新興勢力の織田家も見逃せない存在でした。

 

そのような中、
今川義元は今川氏第11代当主として君臨します。

所領を駿河・遠江から、三河、尾張の一部にまで拡大し、最盛期を築きます。

内政面では、商業を保護し
寄親寄子制度を作り、家臣団の結束を強めました。

 

これらは、今川義元の素養も、勿論あったでしょう。

しかし、義元の右腕として活躍した
太原雪斎の力によるところも大きかったのではないでしょうか。

「甲陽軍鑑」の中で

「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」

このように、山本勘助(武田家軍師)が述べたと記録されています。

今川義元を太守の座に押し上げ、
今川家の隆盛を支えた名軍師・太原雪斎。

弘治元年(1555年)駿河長慶寺で死去します。

享年60歳でした。

 

 

太原雪斎は徳川家康の師だった?

松平竹千代(後の徳川家康)は、
今川家の人質となるはずでしたが、
織田家に奪われ、織田家の人質となっていました。

したがって、家康は幼い頃、
うつけと呼ばれていた織田信長と会いまみえていたのです。

天文18年(1549年)三河安祥城を攻めて
織田信広を捕えます。

雪斎は、織田信秀と交渉を重ね
織田家に奪われていた徳川家康と
織田信広との人質交換を行います。

 

 

こうして徳川家康は、
松平竹千代と名乗っていた幼少の頃に
織田家から今川家へと人質として移されたのでした。

徳川家康は、天文11年(1542年)の御生れですから
6歳か7歳でしょうか。

幼いですよね・・・。

 

 

この幼い頃に、太原雪斎の教育を受けた、
太原雪斎が、後の徳川家康の教育係だった、
という説には、実は賛否両論あるのです。

けれども、徳川家康は後年
天海を傍に置き、相談役にしています。

 

僧侶の学識を認め、相談をしていたのには、
幼少の頃の太原雪斎の影響があるのでは?
などと思ってしまうのですが・・・。

 

太原雪斎は、この頃すでに今川義元の執権として
力をふるっていましたから、人質の竹千代に
直接教育を施すことは少なかったのかもしれません。

 

けれども雪斎流とでもいいましょうか
その教育方針に従って、訓育されたことは間違いないと推察します。

 

何故なら、今川義元の嫡男・氏真は、
徳川家康より5歳年上でした。

後に、今川家を大名家から陥落させる後継者です。

 

太原雪斎は、この後継者・氏真の
優秀な家臣として育てるべく
徳川家康の教育をしていたのかもしれませんね。

であれば、納得がいきます。

後に徳川家康は、

厭離穢土 欣求浄土(おんりじょうど ごんぐえど)

この旗印を掲げ、天下に君臨してゆきます。

仏教的ですよね。

意味は、「苦悩の多い穢れたこの世を厭い離れたいと願い
     心から欣んで平和な極楽浄土を冀うこと」

このような旗印、
よほど高名な僧から教えを受けていなければ
使わないのではないでしょうか?

よって、太原雪斎は、
徳川家康の師であったのでは?

そちらの説に賛成です。

 

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NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で太原雪斎を演じるのは佐野史郎さん

佐野史郎さんは1955年生まれ、
島根県松江市出身の俳優さんです。

いつの間にか、61歳になられたのですね。

ドラマで「ずっとあなたが好きだった」の
冬彦さんを演じ、一躍脚光を浴びました!

今でも、佐野史郎さんを拝見すると
「冬彦さん!」と叫びたくなります。

そんな佐野史郎さんが
大河ドラマで太原雪斎のキャストに選ばれるなんて。

嬉しい限りです。

冬彦さんの時とは違い、
風格が出て来ましたよね(笑)

 

大河ドラマでは、人質として今川家に来る
幼い徳川家康との絡みも出てくることでしょう。

「女城主直虎」のドラマの中では
太原雪斎を徳川家康の教育係として描くかどうか?

とにかく、徳川家康のキャスト・阿部サダヲさんとの絡みが楽しみです!

 

 

まとめ

太原雪斎は、幼い今川義元の教育係を務めます。

五男だった今川義元を内乱を抑え
太守にまで押し上げたのが太原雪斎です。

その後も今川義元の右腕として、
今川家を全盛期まで導きます。

60歳でその生涯を終えます。

そしてその5年後、
1560年桶狭間の戦いで今川義元は討ち死にします。

もし、太原雪斎が御存命なら?
歴史に‟もし”は、ありませんね。

 

 

徳川家康は、人質として今川家に置かれます。
その時に太原雪斎が教育係だったのでは?

太原雪斎は徳川家康の師?

定かではありませんが、
何らかの訓育を受けたことは間違いありません。

それは、家康公が生涯掲げた旗印からも推察できます。

傍に博識の僧・天海を置いたことも
太原雪斎の影響と考えられています。

 

 

本年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」での
太原雪斎のキャストは佐野史郎さんです。

冬彦さんのイメージが濃いですが、
いつの間にか風格ある俳優さんに
なられていました!

 

 

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました。
なお、管理人は歴史研究家ではなく、
知識が曖昧な点や文章も稚拙な点が多々あるかと存じます。
その点はどうぞご容赦ください。

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