豊臣秀頼の最後・生存説は本当か!真田丸ではどう描かれる?

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豊臣秀頼は太閤・豊臣秀吉の三男としてこの世に生を受けます。
母は浅井の姫・淀殿茶々様です。

 

豊臣秀頼が最後を迎えた場所は、
大阪城の山里曲輪といわれています。

しかし、豊臣家が滅んで400有余年経た今も尚、
秀頼の生存説が根強く残っています。

豊臣秀頼の最後を示す史料があるのでしょうか?
何故、生存説があるのでしょうか?

そしてそれは、可能性があることなのでしょうか?
豊富秀頼の最後は、真田丸で描かれるのか?

 

私見も交えて記事にしてみました。

 

 

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豊臣秀頼、生誕から関ヶ原の戦いまで

秀頼は、文禄2年8月3日(1593年8月29日)大阪城で生まれます。

幼名は拾丸(ひろいまる)

慶長元年(1596年)9月に元服してからは、藤吉郎秀頼と称しています。

父の秀吉は、秀頼が生まれる前は、
豊臣秀次を跡継ぎと決め、関白職を譲っていましたが、
結局は、秀次を自害に追い込み、妻子眷属をほぼ皆殺しにしました。

 

関連記事⇒豊臣秀次の切腹事件なぜ?側室30人と子女まで三条河原で処刑も子孫は残った!

秀吉は、権力の中枢を全て秀頼のみに集中させたかったのでしょう。

 

秀頼が元服し、自らが亡くなるまでに、
五大老・五奉行といった職制など、政権内で秀頼を補佐する体制を整えました。

しかし、秀吉が亡くなって4年後には、関ヶ原の戦いが起こります。

徳川家康を総大将とする東軍と、
毛利輝元を総大将(名目のみ)とする西軍(実質・石田三成)との戦いです。

しかしこの関ヶ原の戦いは、双方が「秀頼公の御ために。」
これを大義に戦いました。

 

そのため、関ヶ原の戦いの後、
秀頼は勝者である家康を「忠義者」として褒美まで与えています。

 

関ヶ原の戦いの時点では、
徳川家康も、豊臣秀頼の一家臣に過ぎなかったのです。

ところが、家康は戦後処理において、太閤蔵入地を勝手に分配します。

これにより、豊臣家は220万石から、一気に65万石へ減らされてしまいます。

 

 

ところが実際は、その後も全国に散らばっている蔵入り地から
秀頼のもとに年貢が贈られていたようです。

石高は減っても諸大名からすると、やはり一大名という地位ではないのです。

朝廷も豊臣家を摂関家の家格として扱い、秀吉生前と同様に昇進を遂げていきます。

 

家康が征夷大将軍に任じられたとしても、
そうは簡単に取り潰せるような家格ではなかったのです。

 

慶長10年(1605年)豊臣秀頼は、右大臣に昇進します。

 

この時に家康は、秀頼との面会を希望しますが、淀殿茶々様の反対で実現しませんでした。

家康との会見、そして大阪の陣

秀頼は、慶長16年(1611年)3月、後水尾天皇譲位を機に家康と京の二条城で会見します。

加藤清正、浅野幸長が介添えとして付きました。
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秀頼に対する朝廷の礼遇や、豊臣恩顧の大名たちの秀頼に対する忠誠心。

さらには、関西での廃れることがない太閤人気。

そして、身長190㎝ともいわれた美丈夫・豊臣秀頼との対面は、その後の家康の動向に大き く影響します。

 

 

家康亡き後の徳川家の行く末を想像した時に、
未だ朝廷に手厚く礼を受ける家格の豊臣家と嫡子・秀頼の存在を初めて脅威に思ったのでは ないでしょうか?

元々、徳川家康という人は心配症で、
何事も用意周到に事を運ばなければ気が済まない質ですから。

 

 

こうして、起こったのが方広寺鐘銘事件です。
関連記事⇒真田丸40話ネタバレ&あらすじ「幸村」!片桐且元と方広鐘銘将事件

 

この事件で、賤ヶ岳七本槍にも数えられた片桐且元が豊臣家を改易されます。
関連記事⇒片桐且元の死因は殉死?その生涯を追い能力や評価と子孫をまとめた。

これらは家康が戦の口実を作るために用意周到巡らせた罠でした。

 

大阪の陣の勃発です。

慶長19年(1614年)7月26日に方広寺鐘銘事件勃発。

秀頼は10月には、豊臣恩顧の大名や全国の浪人を召募します。

 

しかし、豊臣方に味方する大名はなく、
関ヶ原の戦いで敗れ改易された元大名や浪人たちが入城しました。

 

11月19日から戦闘が開始した大阪冬の陣は、
大阪牢人五人衆を筆頭に、浪人体の活躍や堅固な大阪城に守られ、徳川軍は苦戦します。

 

しかし、1発の砲弾が淀殿茶々様の居室に命中し
それが発端となり大阪冬の陣は和議となったのです。

 

 

大阪冬の陣の和議からほぼ一月後、
徳川方は大阪城の堀を埋め尽くし、城を裸城にします。

 

冬の陣で見事な勝利を収めた真田丸も破却します。

ただ、真田幸村は真田丸が破却された残骸を、
残らず城内に持ち運び、徳川方には渡さなかったといわれています。

幸村にとっては、真田丸は「我が城」ですからね。

 

慶長20年、大阪方が浪人を手放さないことや、

堀を掘り返し始めたことを切っ掛けに再度開 戦となりました。

 

大坂夏の陣です。

もうこの時には、大阪城は拠り所となる堅固な城ではなくなっていました。
豊臣方は、もはや野戦に持ち込むしかありませんでした。

 

しかし、豊臣方は驚くほど善戦し、
その様子は、薩摩島津氏が国元に送った報告書「島津文書」に残されています。

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まさに、大御所様・家康は、御運が強いために勝ったのだとくくられています。

 

 

結局は、豊臣方は善戦むなしく、大阪城への退却を余儀なくされます。

 

このように、秀頼のもとで徳川を脅かす力が集結する。
これは、秀頼を生かしてはおけないと、徳川方は思ったことでしょう。

 

 

 

豊臣秀頼の最後

大阪城内に雪崩のごとく押し入った徳川勢。

城内は戦場と化しました。

略奪・放火・・・。阿鼻叫喚の様だったことでしょう。

 

そして、真田幸村(信繁)が命を落とした5月7日深夜
大阪城の台所から火の手が上がります。

内通者・大角与左衛門によるものでした。

関連記事⇒真田丸44話築城の感想まとめ!大角与左衛門は好々爺でなない!

 

 

秀頼は、母・淀殿茶々様の助命のために、
妻・千姫を秀忠のもとに送ります。

 

大野修理治長が、秀頼母子の助命のために
千姫を送り出したとの説もあります。

 

千姫と秀頼は幼くして夫婦になり、
もちろん政略結婚ですが、仲の良い夫婦だったといわれています。

 

千姫は、必至に祖父・家康、父・秀忠に、秀頼母子の助命を懇願したといいます。
しかし、千姫の願いは叶うことはありませんでした。

 

この様子を見ていた
井伊直政と安藤直次が、秀頼らが潜んでいた山里曲輪に、独断で鉄砲を撃ちかけす。

 

金地院崇伝の日記に以下のように記されています。

「五月八日、大阪城中の焼け残りの唐之物倉に秀頼並びに御袋、
 大野修理・速水甲斐守以下、付き女中衆、余多籠もり居り、降を乞う。
 井伊掃部・安藤対馬、検地として相詰め、倉へ鉄砲放ちかけ、
 いずれも残らず生害、火掛かる也」

秀頼や淀殿茶々様の最後を見届け、
生き残ったものがいないため、最後の様子は伝説となったわけです。

 

 

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豊臣秀頼生存説

関西圏での太閤人気と同様に、
滅んでいった豊臣家最後の当主・秀頼に対する愛惜の思いが
今も尚残る秀頼生存説の要因でしょう。

 

大阪の陣で活躍した、

真田幸村とともに大阪城を脱出して、鹿児島へ落ち延びた、という伝 説です。

 

しかも鹿児島には、秀頼と幸村の墓があるといわれています。

 

うっそ~~!!

と思いつつも、どこかでそれを信じたくなるのは私だけではないはず!

 

でも、どう考えても無理があります。

なぜなら、秀頼を擁して薩摩へ落ち延びたルートが明確でないこと。

なになに!?

幸村が掘らせた地下トンネルを通じて薩摩へ落ち延びたと!?

 

うっそ~~!!

信じてしまうやん!

 

それもこれも、焼け落ちた山里曲輪後には、
遺体の確認もできなかったといわれていますから、無理もないですね。

 

 

その他の史料にも、五月八日の昼過ぎに
自害し、残るものは何もなかった、ともありますので、
やはり、生存説は後の世の人々の希望的観測のようです。

 

 

秀頼の最後は、真田丸で描かれる?

真田丸は、三谷幸喜さんの脚本ですからね~~。

 

レジェンド・幸村と秀頼の最後は、
我々視聴者が空想(妄想)を150%くらい膨らませ、
しぼんだところで、夜食をがっつく様な展開に持っていくことでしょう(?)

 

 

真田家と直接関係ないからと、
関ヶ原の戦いを佐助の報告で済ませたくらいですかね。

ただ、真田大助が殉死していますから、
有働アナのさりげないナレーションは入ると思います。

真田丸のネタバレはこちらからどうぞ!
        ↓
真田丸最終回50話ネタバレ&あらすじ「疾風」!真田幸村は生きている

 

 

まとめ

豊臣秀吉の三男として生を受け、右大臣にまで上り詰めた豊臣秀頼。

身長190㎝の美丈夫に成長し、
秀吉の死後も衰えぬ豊臣家の力を恐れた家康は
方広寺鐘銘事件で難癖をつけ、片桐且元を失脚させます。

 

これにより、大阪の陣が勃発します。

当初、寄せ集めの烏合の衆と思われた豊臣方の牢人衆は
真田幸村を筆頭に恐るべき善戦を披露し、家康を討ち死に寸前まで追い込みます。

 

しかし、あと一歩で家康を討ち漏らし、大阪方は敗戦。

太閤秀吉渾身の城・大阪城は落城します。

 

そしてついに、千姫の助命嘆願も虚しく秀頼は自害して果てます。

 

その後も、判官贔屓というか

敗れた者への愛惜の念がそうさせるのか、

幸村が秀頼を奉じて、薩摩鹿児島へ落ち延びたという

生存説がまことしやかに囁かれました。

 

どう考えても真実味はないのですが、なぜか信じたくなります!

 

 

 

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました。

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