真田丸42話ネタバレ&あらすじ「味方」!大阪牢人五人衆の結束

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真田丸42話「味方」のネタバレとあらすじをお伝えいたします

 

真田丸42話では、大阪城に入城したのは良いけれど、

後藤又兵衛、毛利勝永ら、クセモノ(強者?)揃いの牢人衆に悩まされる幸村!

 

はてさて、歴戦の猛者達を味方につけ、

一枚岩の結束に仕立て上げるために、どのような秘策を講じるのでしょう?

さらに、大阪牢人五人衆についてもまとめました!

 

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真田丸42話ネタバレ&あらすじ「味方」

 

真田丸42話のあらすじをサックリ

幸村(堺雅人)は、徳川の監視の目を欺き

14年間幽閉されていた九度山を脱出し、大阪城に入城しました。

 

その頃大阪城には、来たるべく徳川との対戦に備えて、諸国から浪人が集まっていました。

その数、10万人以上といいますから、結構な大所帯!

 

徳川家康(内野聖陽)からすれば、ただの寄せ集めの烏合の衆!

なのですが・・・。

 

とにかく、家康は「真田」と聞いただけで

障子を持つ手がブルブル震えるほどの恐怖心を持っています。

 

「親か、子か!?」

真田幸村が大阪城に入城したとの報告を受け、家康は開口一番にこう聞いたといいます。

 

親・真田昌幸(草刈正雄)は、すでにこの世の人ではないのに、です。

 

やはり、第一次・第二次上田合戦での敗北がよっぽど身に沁みているのでしょうね!

 

関連記事⇒真田丸13話いざ、「決戦」昌幸の智略炸裂と梅の最期!あらすじとネタバレも!

関連記事⇒第二次上田合戦、真田家同士討ちの危機!表裏比興の昌幸と信繁の機転!

報せを受けた家康は、ついに大阪へ向けて駿府へ出立します。

 

一方大阪城では、

秀頼(中川大志)が、幸村に総大将になって欲しいと頼みます。

 

あまりの大役に重責を感じつつも、引き受ける覚悟を決めた幸村でした。

大阪城での初めての軍議に臨む幸村。

しかし、その場で幸村が総大将になることに意義を申し立てる者が現れます!

後に、大阪牢人五人衆の一人として勇名を馳せる後藤又兵衛(哀川翔)でした。

 

 

「昔の身分、禄高、しがらみなどを一切無用にして欲しい」

と主張し、幸村の下につくことを拒否します。

 

 

これを聞き、幸村はある提案をし、牢人衆を納得させます。

ある提案って、どんなのでしょうね?

予想は後ほど!

 

もう一つの真田家、信之(大泉洋)の元には、

豊富討伐に向けて、出陣命令が出ていました。

病の信之になり代わり、二人の息子たち

信吉(広田亮平)と信政(大山真志)が出陣することになります。

 

関連記事⇒大山真志が真田丸で真田信政のキャストに!激しい気性どう演じる?

 

 

2人にとって初陣となりますが、信之は

「真田の名に恥じぬ戦いをしてくるように」

と送り出します。

 

 

その直後です、幸村が豊富方に味方し、大阪入城を果たしたという報せが届きます。

信之は、

「真田同士が再び戦場で相まみえることになるやも知れぬ・・・。」

息子たち二人を戦場に送り出したことを悔やむ信之でした。

 

 

さらに、信繁が「幸村」と名を改めたことを知り、

幸村の覚悟を察知した信之は、戦が長引くのでは、と心配します。

 

さらに、幸村の最初の子・すえ(恒松祐里)の

養父・堀田作兵衛(藤本隆宏)が、幸村の元へ駆けつけようとします。

そこへ立ちはだかる、信之でした!

 

 

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真田丸42話ネタバレ

大阪牢人五人衆とは?

慶長19年(1614年)大阪冬の陣、

慶長20年(1615年)大阪夏の陣で

豊富方に味方し、徳川家康を脅かすほどの見事な戦いぶりを見せた5人の将のことです。

 

 

 

NHK大河ドラマ「真田丸」では、

関が原の戦いを描きませんでしたから、

なぜ、この五人の将が、豊富方に集結したのかが解りづらいと思います。

 

なので、少し解説させていただきます。

 

大阪牢人五人衆のキャストの方々については、関連記事をご覧下さい。
関連記事⇒真田丸追加キャスト発表!伊達政宗や徳川秀忠、「たか」など続々!

 

もちろん、大河ドラマ「真田丸」の主人公、

真田幸村(信繁)もその一人です。

 

 

大阪の陣における真田幸村の活躍は、

今後追って記事にしてゆきますね~~!

 

何と言っても、このドラマのクライマックスになりますから!

 

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか/阿南健治)

四国を統一した、土佐の大名・長宗我部元親の四男です。

 

元親の嫡男・信親が戦死したため後継者になりました。

 

この時の跡目争いで、お家騒動があり、それが後々尾を引きます。

 

 

関が原の戦いでは、当初家康方・東軍に

つこうとしますが、長束正家に阻まれそのまま西軍として戦うことになります。

さらに、関ヶ原本戦では、戦況不利と見て戦わずして帰国しています。

 

何となく、間が悪いと言うか、ツイてない感じです!

戦後、徳川家康に謝罪しますが、

家督争いで、兄・津野親忠を殺害したことを咎められ許されませんでした。

 

 

領国は没収、浪人となっていたところ、

「土佐の領地を、そのまま返す。」

と秀頼にいわれたため、大阪の陣に加担することになります。

 

 

なので、死に花を咲かせたい、

というよりは、

失った領地を奪還したい、という思いが強かったようです。

関ヶ原後、京都で蟄居暮らしをしていた盛親は、

僅か6人の従者を連れて大阪へ向かいます。

 

 

しかし、関が原の敗戦で散り散りになった

一領具足でらした勇猛な旧臣たちが合流し、

大阪城に入る頃には、1000人もの軍団になったそうです。

 

 

大阪冬の陣では、真田丸で信繁とともに戦い、

夏の陣では、八尾・若狭の戦いで藤堂高虎隊を破っています。

 

 

大阪落城後は逃亡し、再起を図りますが

京都に潜伏しているところを発見され、市中引き回しの末、斬首されています。

 

 

毛利勝永(もうりかつなが/岡本健一)

豊前小倉六万石・毛利勝信の子として、尾張に生まれます。

 

父の代から豊臣秀吉に仕え、関が原の戦いでは、三成方・西軍につきます。

 

関ヶ原では、前哨戦である伏見城戦で戦功をあげます。

しかし、本戦で西軍が敗れたため、敗軍の将となります。

 

勝永も、父・勝信とともに領地没収。

加藤清正、山内一豊の元で蟄居生活を送っていました。

 

大阪の陣が始まると、蟄居先の山内一豊の元を脱出。

秀頼の誘いを受けて大阪城に入城します。

 

 

譜代の家臣の入城ということで、当初から信望が厚かったといいます。

 

大阪冬の陣では、目立った活躍はなかったようです。

しかし、夏の陣では天王寺口の戦いにおいて

本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を破り、

浅野長重、榊原康勝、酒井家次、本多忠純などの

名だたる部隊を打ち破り、家康本陣に突入する見事な活躍をします。

 

しかし、真田隊の壊滅により戦線が崩壊し

藤堂高虎隊や、井伊直孝や細川忠興の攻撃を防ぎながら大阪城内に撤収します。

 

 

大阪城が落城し、炎に包まれる中

秀頼の介錯をし、最期を見届けます。

 

その後、蘆田矢倉において

息子・勝家、弟・山内勘解由吉近と共に切腹して果てます。

享年38歳でした。

 

 

真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永の三人を称して「大阪牢人三人衆」ともいいます。

 

 

後藤基次(又兵衛)(ごとうもとつぐ・またべえ/哀川翔)

後藤又兵衛の生涯を語るには、

本記事だけではとても足りません!

本当に勇猛果敢で波乱万丈!はたから見ると、面白い生涯です。

 

秀吉の軍師・黒田孝高(如水)に仕えますが、

如水の死から2年後の慶長11年に黒田家を出奔します。

 

 

如水の跡目を継いだ黒田長政との関係がこじれ

これにより「奉公構」という措置を執られてしまいます。

要するに、他家に士官ができなくなったということです。

 

 

又兵衛の武勇を惜しんだ結城秀康や福島正則などから

誘いがかかりますがこのために実現しませんでした。

 

 

大阪の陣が始まると、大野治長の誘いを受け大阪城に入城します。

旗頭として天満の裏での閲兵式の指揮を任された際に見事な采配ぶりを見せます。

何しろ、朝鮮の役でも活躍したほどの歴戦の勇士ですから。

 

 

その采配は「摩利支天の再来」と称されたといいます。

 

 

大阪冬の陣では、6000人の遊軍を任され

鴨野・今福の戦いで矢野正倫らを支援、上杉・佐竹勢と相対します。

大阪夏の陣でも道明寺の戦いにおいて

寡兵にも関わらず、奥田忠次を打ち取るなど孤軍で奮戦します。

しかし、濃霧のために真田幸村・明石全登・薄田隼人らの到着が遅れ討ち死にします。

 

享年56歳。

明石全登(あかしてるずみ/小林顕作)

備前保木城主・明石行雄の子として生まれます。

生年は、確実な資料はなく、永禄12年前後とされています。

 

 

宇喜多家のお家騒動後、宇喜多家の家宰となり、

関が原の戦いでも、秀家に従い三成方・西軍に与し戦います。

 

 

宇喜多勢7000を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に善戦します。

真田丸で描かれずに残念でしたね!

 

明石全登は、大阪の陣よりも関が原での活躍のほうが光っていましたから。

そして、なぜ大阪入城を果たしたのかも、

関が原の戦いを描かないと、今ひとつピンとこないと思います。

 

関ヶ原の戦いは結局、小早川秀秋の裏切りで壊滅状態となり敗走。

自害しようとする宇喜多秀家を諌め、自らが殿(しんがり)を務め、秀家を逃します。

 

関連記事⇒宇喜多秀家はお家騒動が元で関ヶ原で敗れ八丈島に流刑に!子孫はどうなったのか ?

関連記事⇒小早川秀秋は大谷吉継の呪いが死因?関ヶ原での裏切りは想定内だった!

 

 

関が原の戦後、浪人となった全登は、

キリシタン大名・黒田如水に匿われていたといわれています。

 

 

しかし、如水の死後、後を継いだ黒田長政が

キリスト教を禁止したため、柳川藩を頼ったとされます。

 

後藤又兵衛も明石全登も、黒田長政とは悪縁でしたね。

 

大阪の陣には、キリスト教の信者を増やしたいという目的で入城しています。

大阪夏の陣では、道明寺の戦いに参加し、

水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦し

政宗と相茂の同士討ちを誘うなど、混乱に陥れています。

 

 

続く、天王寺・岡山の戦いでは、

旧蒲生氏郷家臣・小倉行春と共に

300余名の決死隊を率いて家康本陣を目指します。

 

 

しかし、友軍の壊滅を知り、包囲網をかいくぐり戦線離脱します。

 

それ以降の消息は不明です。

戦死説、生存説、南蛮逃亡説などなどあります。

 

 

真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登

大阪の陣でその活躍ぶりから、後に大阪牢人五人衆と謳われた方々です。

 

名前、残りましたね。

 

大阪牢人五人衆、一枚岩の味方にするには?

真田幸村・長宗我部盛親、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登、

それぞれの想いを胸に、大阪城に入城してきています。

今更命は惜しみません。

 

 

この五人が味方同士となり、一枚岩の結束をつくるための方策とは?

勝つための秘策。

そして、それぞれが思う存分活躍できる戦略が必要でしょう。

 

幸村の提案とは・・・。

 

総大将は豊臣秀頼公。

今回は関ヶ原の戦いのときのように、蚊帳の外というわけにはいきません。

猛将達は、秀頼公の名のもとに大阪城から打って出て、持ち場を任される。

そうすることで、自由に采配も振るうことができるし、名も残る。

 

 

それに、納得できたときこそ、

心を一つにして、この歴戦の勇者たちが徳川勢に向かっていけるのだと思います。

 

向かう相手は、名だたる大名を引き連れた、徳川勢20万

片や大阪方は半数の10万でこれを打ち破ろうというのですから、最初から死は覚悟の上!

 

しかし、幸村達牢人衆の考えを、

豊臣家上層部が受け入れるかどうかは・・・。

 

 

まとめ

九度山を脱出して大阪城に入城した幸村を待ち構えていたのは、今は浪人となった歴戦の勇士 たちでした。

 

特に、後藤又兵衛は幸村が総大将になることを断固拒否します。

 

しかし、後に「大阪牢人五人衆」といわれる

真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登は

味方として、一枚岩の結束を誇り、徳川勢を脅かす戦いぶりを披露します!

 

幸村の人心掌握ぶりが楽しみですね!

 

対する徳川家康は、真田の名を聞くだけで怖じ気づく始末。

やはり、二度もこてんぱんにやられて、身に沁みているのでしょう(笑)

信之お兄ちゃんは、息子二人を大阪の陣に送り出します。

その直後に、弟・信繁が幸村と名を改め、豊富方に味方するため大阪城に入ったと聞きます。

 

さらに、すえの養父・堀田作兵衛も、幸村のもとに馳せ参じようとします!

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真田丸42話「味方」

それぞれの思惑がぶつかるなか、

クライマックスの真田丸の戦いに向けて、カウントダウンが始まりました!

 

楽しみですね!

 

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました。

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