片桐且元の死因は殉死?その生涯を追い能力や評価と子孫をまとめた。

片桐且元は、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられる武勇の人です。

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引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83

 

元々浅井家に仕えていましたが、

浅井家が滅んだ後は、羽柴(豊富)秀吉に仕え、数々の武功や、能吏としての力量 を発揮しています。

 

 

しかし、ドラマなどでは徳川家康に手玉に取られ

大阪城内では淀殿茶々様達に翻弄されるような、

どちらかと言えば、『情けない気弱な人』

という風に描かれることが多いようです。

最近では、片桐且元が西本願寺宗主に宛てた書状が見つかっています。

 

秀頼の傅役に選ばれながら、

大阪の陣では、徳川方として豊臣家と戦っています。

 

片桐且元とは、どのような方だったのでしょうか?

その生涯を追いながら、片桐且元の能力や死因、

死後の評価と子孫をまとめました。

 

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片桐且元の生涯

本当は、武勇の人だった片桐且元。

弘治2年(1556年)片桐直貞の長男として近江国に生まれます。

母は不詳です。

助作、市正(いちのしょう)などと呼ばれていました。

秀吉などは終生、助作と呼んでいたようです。

 

弟に共に大阪城を抜け出した、片桐貞隆がいます。

 

片桐家は浅井久政の代から浅井家に仕え

浅井長政の代で、織田信長と争い滅亡するまで、父と共に戦っています。

なので、まだ幼かった淀殿茶々様や、

その乳母の大蔵卿局、その子・大野治長とは、旧知の仲だったのです。

 

関連記事⇒淀殿茶々様の生涯と性格は?北政所との関係や秀頼の父親が誰か考察し た! 

片桐且元が羽柴秀吉に仕えたのは、

天正2年(1574年)から天正7年(1579年)の頃だといわれています。

 

片桐且元、18歳~23歳の頃ですね!

 

同じ頃、石田三成・正澄兄弟も秀吉に士官しています。

 

昇天の勢いで出世してゆく秀吉ですから、

有望な若者を一人でも多く召し抱えたい ときだったのでしょう!

 

片桐且元は、秀吉の中国攻めにも参戦しています。

本能寺の変の後、俗にいわれる秀吉の中国大返しにも、共に陣中に居たのでしょう

明智光秀との最後の決戦・山崎の戦いの折りには、

片桐且元が、死体を装い秀吉に襲いかかろうとした

明智光近(光秀の側近)を打った、という記述が『絵本太閤記』にあります。

 

 

その後、秀吉は覇権を争い、柴田勝家と賤ヶ岳で戦います。

片桐且元は、この時に“一番槍”の功を認められ、

秀吉から摂津国内に3千石を与えられています。

 

加藤清正、福島正則らと共に、賤ヶ岳の七本槍と讃えられたのがこの時です!

 

だから、ボーッとした気の弱いおじさんではなかったようです。(笑)

 

 

この後、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも従軍しています。

この時の陣立書では、馬廻衆として150人の兵を率いて本陣を守っていたことがわ かっています。

 

 

馬廻衆といえば、NHK大河ドラマ「真田丸」でも

主人公の真田信繁(堺雅人さん)が、

一時期秀吉の馬廻衆として取り立てられましたね。

 

優秀で、武芸に秀でたものにしか与えられない職務です!

 

一度も戦に出たことのない秀頼とは違って、

片桐且元は、落城も経験し、戦で何度も生き地獄を見てきた人なのです!

ここの違いが、後に影響したのではないでしょうか?

 

 

優秀な行政官だった片桐且元

天正14年(1586年)片桐且元36歳、壮年の働き盛りですね!

 

この年の7月1日に、従五位下東一正(じゅごいげ ひがしいちのかみ)に任官され ています。

 

またこの時に、豊富姓も下賜されています。

 

ここからは、奉行として数々の功績を残しています。

天正14年に方広寺大仏殿の建設で作事奉行を務めた他、

摂津国、大和国、丹波国などの検地奉行も務めています。

 

翌・天正15年(1586年)九州征伐では、軍船の調達、

天正18年(1590年)小田原征伐では、徳川家康と共に小田原城の接収に立ち会って います。

 

文禄の役(朝鮮出兵)にも、弟・貞隆と共に参戦しています。

文禄3年(1594年)、伏見城の普請を分担し、文禄検地を行っています。

 

この頃に、5800石加増され、1万石を領するようになります。

 

そして、慶長3年(1598年)8月15日に、豊臣秀頼の傅役の一人に選ばれます。

 

どう考えても、豊臣家の重臣中の重臣。

どこからどうなって、徳川家康との結びつきが強くなったのでしょうか?

それは、あの出来事がきっかけです!

 

 

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関が原の戦いと片桐且元

 

関が原の戦いでは、片桐且元は西軍(石田三成方)に付きます。

弟・貞隆も加わった大津城の戦いに家臣を派遣しています。

ところが!

 

関ヶ原の戦いは東軍(徳川家康方)の大勝利!

関連記事⇒石田三成の子孫は関ヶ原の戦い後も生き抜く!家紋や逸話もまとめた!

この後の片桐且元の変わり身の速さは、流石です!

 

やはり、天下の趨勢を見極める目は人一倍高かった、というべきでしょう。

関ヶ原の戦いがいかに大切な戦いか、歴戦の将には痛いほどわかっていたのでしょ う!

 

 

西軍の負けが決まるとすぐ、徳川家康のもとに長女を人質として差し出します。

さらに、徳川・豊富、両家の調整に奔走します。

 

 

関ヶ原の戦いは、秀頼のあずかり知らぬこととし、害が及ばぬよう。

徳川家康にとっても、表向きは主家に歯向かったわけではない、というふうに。

 

 

このことにより、片桐且元は徳川家康により大和2万4千石を加増されています。

もうこの辺から、片桐且元は完全に徳川よりですよね。

 

この後は、徳川家の検地に協力したり、

畿内の寺院復興事業に取り組んでいます。

 

慶長10年(1605年)頃からは、伏見城内の実務にも当たっています。

この頃家康も伏見城に在りましたから、実質徳川家家臣のような立ち位置です。

 

 

そして、徳川家康と豊臣秀頼の二条城の会見

 

淀殿茶々様は

「家康が大阪城に出向けば良い」

片桐且元はこれに反対し

「関東と不和となり合戦起こらんこと必定」

こう述べ、慶長16年(1611年)3月28日

家康・秀頼の二条城会見を実現させています。

 

もちろん、片桐且元も同席しています。

加藤清正公も同席したことも知られています。

 

 

NHK大河ドラマ「真田丸」では、徳川家の透破・二代目服部半蔵に暗殺されてしま いますが!

 

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大阪冬の陣まで、後3年です!

 

 

片桐且元と方広寺鐘銘事件

これはもう、徳川家康が豊臣家を滅亡を画策し

難癖をつけたとしか言いようのない出来事です。

しかし、近年では問題視されても、致し方ないという研究が報告されています。

慶長19年(1614年)3月、方広寺大仏殿の再建が終了し、梵鐘も4月には完成してい ました。

 

梵鐘の銘文は、南禅寺長老・分英清韓が選定しました。

この奉行を務めたのが片桐且元です。

 

 

方広寺鐘銘事件とは、

この銘文に不吉な語句があるといい、

徳川家康が方広寺大仏開眼供養の中止を求めた事件です。

 

銘文のうち、

①「国家安康」と家康の諱を用いたことは不敬である。

②「君臣豊楽」は、豊富を君として子孫までの繁栄を祈る下心」

③「右僕射源朝臣家康」は、右大臣(秀頼)源氏の長者である家康を射る

これらを、呪詛と捉えたようです。

 

 

この時代の人々であれば、確かに忌み嫌う文言ですよね。

現代でさえ、「言霊」といって、

言葉の大切さを力説される方もおられますから

この時代であれば、尚更でしょう。

 

8月19日、片桐且元は家康と共に

銘文を問題視した崇伝らに弁明しますが、

家康は面会もしてくれませんでした。

 

ところが、8月29日に

徳川家康は淀の茶々様の側近・大蔵卿局とあっさり面会します。

片桐且元への対応とは、真逆です。

 

大蔵卿局は、手厚くもてなされ、

家康は、銘文のことには触れず、

終始機嫌よく振る舞ったようです。

そして、9月8日に大阪に帰ります。

 

 

この時に大蔵卿局は崇伝から、

「以降も徳川家と豊臣家の間に

疎遠や不信のないような対策を求め、

江戸に盟約書を参じてもらいたい」と伝えられます。

 

 

大蔵卿局には機嫌よく面会し、何ら咎めるふうでもない。

しかし、片桐且元には、面会すら許さない。

大蔵卿局は、事の重大さを理解できないまま

秀頼や淀殿茶々様に報告してしまいます。

 

しかし、一方の片桐且元は、徳川方の腹は決まったものとみなしていました。

要するに、出方次第で、攻め滅ぼす心つもりだと気づいていたのです。

 

 

片桐且元、大阪城を出る!

片桐且元は、方広寺鐘銘事件での

弁明が許されないと知ると、

徳川・豊富の開戦だけは避けようと、

秀頼・淀殿茶々様らに提案を持ちかけます。

 

①秀頼を駿府と江戸へ参勤させる。

②淀殿茶々様を江戸に人質として住まわせること。

③秀頼が大阪城を出て、他国に国替えすること。

このどれかを選ぶように勧めます。

ところがこのことで、

片桐且元は家康に内通している、と

疑われる結果となってしまいます。

 

 

9月23日になり、片桐且元は織田信雄より

大野治長や渡辺糺ら淀殿茶々様の側近が

片桐且元の暗殺を企てている事を聞かさされます。

 

 

この暗殺計画を知り、片桐且元は屋敷にこもります。

 

秀頼や木村重成がこれを調停しようとしますが、

片桐且元は城を出ることを決めます。

 

 

これにより、片桐且元は秀頼から改易され、

10月1日、蔵米等の引き継ぎを済ませた後に、

弟・貞隆と共に手勢300程を引き連れ大阪城を退去します。

 

 

大阪城内から徳川恭順派が居なくなりました。

徳川・豊富の開戦はもはや避けられない状況となっていきます。

 

尚、織田信雄は、これより前の9月27日に城を出ています。

この状況を手ぐすねを引いて待っていたのは

他でもない、徳川家康だったでしょう。

 

 

片桐且元、大阪の陣では徳川方として戦う

 

大阪冬の陣

 

こうしてついに、片桐且元は主君・秀頼に弓をひくことになります。

 

片桐且元は、誰よりも大阪城の内情には詳しいでしょうから。

城内の間取りから、淀殿茶々様の居室まで。

さらには、どのくらいの金や兵糧があるのかまでも!

 

家康にとっては、シメシメってなもんですよ!

 

徳川方に全面協力した片桐且元。

真田丸での戦いで、甚大な被害を受けた徳川方は

12月16日から、大筒や石火矢での攻撃を始めます。

18日からは、これに片桐且元も加わり、

大阪城北側の備前島から砲撃を打ち掛けたといわれています。

この砲撃が、淀の茶々様の居室へ命中し、侍女ら数名が即死したといわれています

この惨状を見て、大阪冬の陣の講和が決定したと言ってもいいでしょう。

 

近年、大阪冬の陣の和睦が近く成立するであろうことを伝える片桐且元の書状が見 つかっています。

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龍谷大学大宮図書館に所蔵されているものです。

 

 

書状の日付は、慶長19年(1614年)12月18日付です。

大阪城北側の備前島で大阪城を攻めていると記し、

近日中に和議が成立するであろうことを記しています。

そしてこの書状通り、翌19日に大阪冬の陣の和睦が成立しています。

なんともやりきれない気分ですね。

敗れたとはいえ、石田三成や大谷吉継とは、随分違いますね!

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大阪夏の陣

慶長20年(1615年)1月に片桐且元は隠居を申し出ます。

しかし許しが出ないまま、4月26日大和郡山の戦いが勃発。

事実上この戦いが大阪夏の陣の発端となりました。

 

片桐且元は、5月7日徳川秀忠の軍勢となっていた

弟・貞隆の隊に合流し岡山口に布陣します。

 

 

この時に嫡男・片桐孝利が初陣を遂げています。

 

大野治長が淀殿茶々様と秀頼の助命嘆願を

片桐且元に依頼してきましたが、

山里曲輪にいることも徳川秀忠に通報したために助命はかないませんでした。

 

 

5月7日深夜、大阪城落城。

5月8日、秀頼、淀殿茶々様、大野治長ら諸将ら自害。

 

その中には、真田幸村の嫡子・真田幸昌(大助)もいました。

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これにて、豊臣家は滅亡しました。

秀頼の長男・国松も後に捉えられ、処刑されます。

 

 

片桐且元の死因と評価

片桐且元は、豊臣家が滅亡した20日後の

5月28日に、60歳で亡くなっています。

表向きの死因は病死とされています。

実際、前年から肺を患っており、

徳川家康が医師を差し向けたといわれています。

 

また、一方で豊臣家の滅亡を

嘆き悲しんだあまり死に至ったという説や

殉死したという説もありますが・・・。

どうでしょうか。

管理人は、死因は病死だと思います。

なんとか、徳川豊富の開戦を阻止したいと願っていた片桐且元です。

 

方広寺鐘銘事件の頃から、いいえ、

もしかしたらそれ以前から、

豊臣家滅亡の予感をかかえ、胸苦しさで一杯だったのではないでしょうか?

だから、息が苦しくなるような肺の病気を患ったのでしょう。

 

滅亡した後に、殉死するくらいなら、

徳川家に恭順の意を表すように

3つの案を提示して受け入れられなかった時に

死を持って、秀頼に換言すべきでした。

 

でも、そうすることはなく、

さっさと大阪城を見捨てています。

 

まあでも、弟のように可愛がっていた

大野治長が、自分を暗殺しようとしているなんて、ショックですよね。

 

気持ちは大いにわかります。

 

秀頼から、『不忠者』と罵られても、

大阪冬の陣・夏の陣共に、徳川方として主君に弓を引いています。

 

 

これは、能力は高かったかもしれませんが、

戦国時代の評価は厳しかったでしょう。

 

徳川幕府にしても、主君に弓引いた武将を

高く評価してはまずいですから!

 

名をこそ残そうと、

命がけで戦った真田幸村や後藤又兵衛とは

雲泥の差の評価を受けることになります。

 

当時の記録は、引用させていただきます。

『慶長見聞集』には、「且元、家老として無二の忠臣を装うが、

 君臣不快となると言えども多年のなじみを忘れ、

 家康公に秀頼殿の隠れ場所を申し上げしこと侍にあらずと人々申しける」

 と記されている。

 神沢杜口は『翁草』で、「忠義面した且元は大坂に弓を引いた。

 悪人と憎まれた大野治長は運命を共にした」

 引用元:https://ja.wikipedia.org/wik%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83

 

 

片桐且元の子孫

片桐且元の跡目は、大阪夏の陣で初陣を果たした嫡男・孝利が継ぎます。

しかし、滝田藩は4代片桐為次が早世したため無嗣断絶となります。

 

 

しかし、弟・貞隆の家系が明治まで存続し家名を伝えています。

 

したがって、片桐家のためには、

あの時に弟・貞隆と共に大阪城を出て

徳川家康のもとに付いたことは良かったといえます。

 

まとめ

片桐且元は、近江に生まれ

浅井家が滅んだ後に、羽柴秀吉に仕えます。

幼き頃の淀殿茶々様や大野治長とは旧知の仲です。

秀吉に仕えてからは、数々の合戦で武功を上げます。

賤ヶ岳の七本槍の一人として有名を馳せた武勇の人でした。

 

片桐且元は、36歳で従五位下東一正に任官され、豊富姓も下賜されています。

以後は、奉行として功績を残し、優れた行政手腕を持っていました。

片桐且元と徳川家康との関係が深まるのは、関が原の戦いで東軍が勝利した直後か らです。

やはり、優秀な方だけあって、先を見通す眼は確かです。

 

 

大方の西軍の諸将が、関ヶ原の戦い後は

厳しい処分を下されているのに対し、片桐且元は加増されています。

 

 

そして、決定的な事件がおこります。

 

片桐且元が奉行を務めた、方広寺大仏殿の鐘銘事件です。

 

片桐且元は、必死で弁明しようとしますが、家康は面会すら許しませんでした。

かたや、大阪城から使わされた大蔵卿局には

終始機嫌よく接し、銘文のことなど咎め立てもしません。

 

このズレが、大阪城内の片桐且元への不信感を強めることになります。

 

 

結局、片桐且元は徳川家康に内通したと疑われます。

 

織田信雄から、大野治長らが片桐且元を暗殺しようとしていると聞かされ、ついに 大阪城を出る決心をします。

 

 

大阪の陣では、徳川方として大阪城を攻めます。

片桐且元は、豊臣家が滅亡した20日後に60歳で亡くなります。

片桐且元の死後の評価は非常に厳しいものです。

 

徳川幕府を盤石なものにしてゆくには、

忠義心を植え付けなければなりませんから。

 

 

片桐且元の直系の子孫は、断絶します。

しかし、弟・貞隆の子孫が明治まで家名を存続させます。

 

 

 

若き日々は、秀吉と共に戦場を駆け回り、武勇を鳴らした片桐且元。

壮年期は、優れた行政手腕で奉行や検地などをこなし、出世街道を走り続けます。

時代を見る目も優れていたのでしょう。

 

しかし、いかに能力が優れていても、死後の評価は苛烈なものでした。

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました。

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