激闘・大谷吉継!関ヶ原に舞う鷹の羽(家紋)病気をおして三成に殉ずる

越前敦賀城主・大谷吉継は

文武両道、名将の誉れ高い武将です。

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引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E…

 

関ヶ原の戦いでは、不利を知りながらも

刎頸の友・石田三成に与します。

 

病気のため、失明し駕籠に乗って奮戦する大谷吉継!

関ヶ原に鷹の羽の家紋が風にはためきます。

最後まで家臣と共に激闘を繰り広げます!

 

 

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大谷吉継、友・石田三成に殉じる決意をする!

大谷吉継は、豊臣秀吉をして

「大谷紀之介(大谷吉継)に100万の軍勢を与えて、

 自由に軍配を指揮させてみたい。」

と言わせたほど、能力を評価されていた武将です。

 

 

徳川家康からも信任が厚く、

上杉討伐にも参陣するつもりで

3000の兵を伴い出立していました。

 

 

家康は、上杉討伐が終わったら、

吉継に12万石を与える約束をしていたといわれています。

 

 

その途中、美濃の垂井で、

吉継の元を石田三成の使者が訪れます。

 

佐和山城に招待された吉継に

石田三成は挙兵を打ち明けます。

 

NHK大河ドラマ「真田丸」35話でも、

丁度このあたりを描いていますね!

 

 

この時、大谷吉継は

この戦は無謀であり、三成に勝機なし

と、3度三成を諫めたといわれています。

 

 

しかし、揺らぐことのない三成の決心に

吉継は一族を挙げて殉ずることにします。

関連記事⇒石田三成の子孫は関ヶ原後も生き抜く!家紋や逸話もまとめた!

ここでグッと、大谷吉継の人気が爆上がり!

 

数百年経っても失せない、

「義に厚い武将」という評価!

確かに私もそう思います!

 

大好きです!

眼も見えず、足腰も弱った状態でも

損得抜きに友のために戦う決心をするなんて

心意気が素敵!

 

でも、そうとばかりではないのでは?

吉継は、文武両道に秀でた武将です。

 

家康も、吉継が三成に加担したと

知った時には、落胆が激しかったといわれています。

 

戦うからには、どうすれば勝てるのか!?

吉継はそう考え、

友のため、豊臣家への恩義のため、

乾坤一擲の戦いに臨んだのだと思います。

 

 

さらには、あの真田昌幸も、

一族を二分して、この大戦にかける決心をしているのです!

 

すなはち、この時点では、

西軍・東軍、どちらが有利か、

何とも言えない状況だったのではないでしょうか?

 

 

史料から見ても、吉継の動きは勝を獲りに行っています!

○大阪にいた真田昌幸の正室を人質として預かっている。

○吉継の母・東殿が、高台院(北政所・寧々)の代理として宇喜多秀家の出陣式に出席している。

○越後国・加賀国における調略開始。

○偽情報を流し前田利長を動揺させ、前田軍と戦闘。これにより前田軍は加賀に撤退。

 

このように、友に殉じた吉継ですが、

最初から、負け戦を想定していたわけではなさそうです。

それが、関ヶ原で使用した家紋・鷹の羽にも表れています!

 

 

大谷吉継、関ヶ原での激闘!

9月、三成の要請を受け、

脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・

戸田勝成・赤座直保の諸将を率いて美濃の国に進出。

上記のアンダーラインを引いた武将が、関ヶ原で裏切ります。

この裏切り者メ!!

慶長5年9月15日(1600年10月21日)

いよいよ関ヶ原の戦いです!

 

大谷吉継の激闘が始まります!!

 

吉継は関ヶ原の西南・藤川台に布陣。

大谷一族、戸田勝成・平塚為広の諸隊合わせて5700人でした。

陣中にはこの他に

織田信長の子・織田信吉と長次兄弟、

蜂須賀家政の重臣・高木法斎らがいました。

午前中は藤堂高虎・京極高知を相手に奮戦します。

ところが正午過ぎ、小早川秀秋隊1万5000人が東軍に寝返ります!

 

大谷隊に襲い掛かる小早川隊1万5000!

 

 

しかし、吉継はこの裏切りを想定していました!

吉継直属の兵600で迎撃します。

さらには、前線から引き返した

戸田勝成・平塚為広が加勢し、

小早川隊を3回も山へ追い返したといいます。

 

 

この時、小早川秀秋は、何とも思わなかったのでしょうかね?

幼き頃から、吉継のことはよく知っていたはず。

豊臣のために、奮戦する吉継を見て、自身の裏切りが情けなくなかったのでしょうかね?

後々まで、語り継がれる汚点を残しましたね、小早川秀秋は。

人は、結果だけで判断されるものではないです。

その生き方が、過程が大切なんだということは、歴史が物語っていますよね!

余談ですけど。

 

 

この時に、小早川秀秋の元へ

寝返りの監視役として陣中にいた

奥平貞治が重傷を負い、後に亡くなっています。

 

 

いかに激闘であったかを物語っています。

ところが、裏切り者がまだ控えていました。

小早川秀秋の裏切りに備えて布陣していたはずの

脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保

4隊・4200人が、突如東軍に寝返り大谷隊に襲い掛かったのです!

特別に、赤色マーキング大文字で記載します!

この裏切り者メ!

 

これにより大谷隊は

前面から東軍、側面から脇坂、朽木、小川、赤座の裏切り隊、背面から小早川隊

これらの猛攻撃を受けます。

 

この時すでに盲目だったとされる吉継は

輿に乗り、鷹の羽の家紋を翻し指揮を執っていました。

 

戦況は見えないため、家臣・湯浅五助に

負け戦になったら教えるよう指示していました。

 

そして、こう言い置いていました。

「我が首を敵に渡してはならぬ!」

 

父・吉継危うしを聞き、

子の大谷吉勝や木下頼継が救援に向かおうと

部隊を後退させたところ、兵が撤退と勘違いし、

そこを一気に突き崩されたようです。

 

 

ちなみに、大谷吉勝はこの後大阪の陣で

真田信繁隊に加わって戦死します。

 

湯浅五助の「御合戦御負け」

これにて、大谷吉継は自刃。

湯浅五助が介錯。

享年42歳でした。

 

自刃する際に、小早川秀秋の陣に向かって

「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん。」

といったと伝わっています。(真偽のほどは定かでありません。)

 

小早川秀秋は、関ヶ原の戦いの2年後に亡くなっています。

関連記事⇒小早川秀秋は大谷吉継の呪いが死因?関ヶ原の裏切りは想定内だった!

大谷吉継の首は、関ヶ原の地中に埋められ

戦後も発見されることはなかったといいます。

また、これには異説があります。

大谷吉継の首は、湯浅五助の家臣・三浦喜太夫が

袋(陣羽織とも)に包んで吉継の甥・祐玄(従軍僧)に

持たせて戦場から脱出させたと伝わってもいます。

 

祐玄は米原(滋賀県米原市)に首を埋めたといわれ、首塚もあります。

 

湯浅五助は大谷吉継自刃後、藤堂高虎隊に駆け行って討ち死にします。

三浦喜太夫は、追い腹を切って自刃します。

 

 

関ヶ原には、吉継の墓がありますが、

隣にはちゃんと湯浅五助の墓があります。

 

 

この戦で、

戸田勝成、内記父子ともに討ち死に。

平塚為広、討ち死に。

織田長次、討ち死に。

 

平塚為広の辞世の句

「名のために(君がため)棄つる命は惜しからじ

 終にとまらぬ浮世と思えば」

この返句とされる大谷吉継の辞世の句

「契あらば六の巷にまてしばし

 おくれ先立つ事はありとも」

これ、戦闘中に平塚為広が決別の挨拶として

大谷吉継に辞世の句を送り、

それに対し大谷吉継が返した句だといわれています!

 

なんとまあ、この時代の日本の侍は

ひと味もふた味も違いますね~~!

 

家紋は鷹の羽(たかのは)勇敢を表す!

大谷吉継は、二つの家紋を使ったことで知られています。

一つは、鷹の羽(たかのは)紋

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家紋・鷹の羽の意味は、「勇敢」を表します。

 

鎌倉時代から使われている紋で、

武勇を表すことから人気が高く

藤紋、桐紋、片喰紋、木瓜紋と並ぶ

五大紋の一つに数えられるほどです。

 

大谷吉継は、関ヶ原の戦いにおいて、

この鷹の羽紋を使いました。

 

もう一つは、対い蝶(むかいちょう)です。

 

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吉継が従五位下・刑部少輔に任じられた

1585年頃から使い始めたといわれています。

対い蝶は蝶紋の一つに分類され、

平家一門が使用していたことで有名です。

平家は滅びこそしましたが、

一門、家族が仲が良かったことでも知られています。

従五位下に任じられ、

出世しても、一族の絆を大切にしていきたいという

吉継の心がそうさせたのかもしれませんね。

 

関ヶ原の戦いでは、鷹の羽紋を使いましたが、

一族共に勇敢に戦う決意を表していたのではないでしょうか?

関ヶ原での激闘ぶりでわかりますね!

 

 

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引用元:http://senjp.com/ootani/

 

ちなみに、陣羽織には群れ飛ぶ蝶が

描かれていたそうですから、

鷹の羽紋は旗印、対い蝶の紋は陣羽織にとの

考えだったのかもしれません。

 

 

吉継の病気は、業病?

大谷吉継といえば、ハンセン氏病(癩病)

といわれますが、それを裏付ける史料はありません。

当時は、不治の病を癩病や、

業病(前世の業を背負った病)と言っていたようです。

 

ただ、20歳前後の頃から

「悪瘡(あくそう・悪性の腫れもの)」が発症していたとされ、

若い頃の手紙に、「白頭」と号していたことがわかっています。

 

これは、白頭巾をかぶっていたということか、

皮膚病のために、頭髪が抜けていたのでは、という説があります。

史料にはっきりあるのは、

「悪瘡」と眼が見えなくなったていたこと。

悪瘡(あくそう・悪性の腫れもの)と

眼が視えなくなっていることから、

最近では、糖尿病ではないかという説があります。

また、梅毒では?という説もあります。

 

 

糖尿病は、感染防御能力が低下するため

皮膚病になると治りにくく、悪化しやすいです。

そして症状が重くなると失明してしまいます。

神経障害が出てくると、足腰が弱ってきます。

大谷吉継の症状は、糖尿病の症状と合致しますね!

 

 

ハンセン氏病では、たとえ輿に乗ったとしても

戦での激闘には耐えられないのではないかと思いますね。

 

それに、当時は相当差別を受けていた

病気ですから(現在は誤解がが解かれています)、

秀吉の馬廻り衆として活躍することは適わなかったのではないでしょうか。

 

 

したがって、糖尿病説が最も有力に思えます。

 

病をおして、三成に殉じた吉継ですが、

三成もまた、病をおしてまで、自分に味方してくれる友に感謝し、たいそう喜んだといいます。

 

 

まとめ

大谷吉継は、豊臣秀吉、徳川家康から

高く評価をされていた文武両道の名将です。

上杉討伐を終えれば、

6万石の敦賀城主から、12万石への加増が

約束されていました。

しかし、垂井で三成から佐和山城へ招待されます。

挙兵です。

大谷吉継は石田三成に対し、

3度に渡り、無謀であることを説得します。

けれども最後は、敗北覚悟で

友・石田三成に殉じる決断をします。

西軍で戦うことになった吉継は、

さすが名将、勝つための方策を講じてゆきます。

 

慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いの火ぶたは切って落とされます!

 

大谷隊の激闘、奮戦ぶりは見事で

少数の兵で東軍諸将と優位に戦います。

 

しかし、正午頃の小早川秀秋の裏切りで命運は尽きます。

 

大谷吉継、激闘の末、自刃。

享年42歳。

 

敵に首を取られることのなきよう、

常々家臣に指示していたため、

関ヶ原の地に埋められたとも、

米原の地に祀られたともいわれています。

家紋は、鷹の羽紋、対い蝶の紋を使っていました。

しかし、関ヶ原の戦いでは、鷹の羽紋を使っています。

大谷吉継は関ヶ原の戦いに病をおして参戦しています。

業病(ハンセン氏病)等といわれていますが、

史料には、「悪瘡(あくそう・悪性の腫れもの)」

眼が悪かったこと、しか残されていません。

最近では、糖尿病説が浮上しています。

 

何だかまだまだ書き足りない気がしますが、

新しい情報や気付いたことがあれば追記しますね!

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました!

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