石田三成の子孫は関ヶ原の戦い後も生き抜く!家紋や逸話もまとめた!

若き日に豊臣秀吉と出逢った石田三成。

三献の茶の逸話で有名です。

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その豊臣家に最後まで忠義を尽くし

関ケ原の合戦で敗れ、処刑されます。

 

‟人望がない”や、‟傲慢だ”と、

マイナスの評価をする方も多いと思います。

しかし、近江佐和山城下の領民に

善政を敷いたことなど、プラスの逸話も沢山あります。

本日は、石田三成公の家紋や逸話をまとめ

関ケ原の合戦で敗れた後も

忠義の家臣に守られて、生き残った子孫たちのことをまとめました!

 

 

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石田三成の子孫

 

 

長男・石田重家(いしだしげいえ)

母は、皎月院(宇多頼忠娘)

天正11年(1583年)または、天正15年(1587年)

石田三成の嫡男として生まれます。

 

慶長5年(1600年)重家は大谷吉継から

上杉討伐に出陣する徳川家康の下へ

参陣するよう勧められます。

しかし、関ヶ原の戦いが勃発したため

豊臣家の人質として、大阪城に留め置かれます。

歴史って、本当に面白いですよね。

もし、この時大谷吉継と共に

行動を共にしていたなら、

恐らく、命はなかったでしょう。

 

関ヶ原の戦い後は、壽聖院の開山である

伯蒲禅師に弟子入りし出家の身となります。

 

伯蒲禅師は、京都所司代奥平信正を通じて

助命嘆願し、徳川家康はこれを許します。

 

敗者とはいえ、石田三成は豊家の忠臣です。

それに、重家がまだ10代と若かったせいもあるでしょう。

後に済院宗亨と名を変えて、

壽聖院三世の住職となります。

 

後に春日局の側近となった祖心尼

禅を教授したのが、済院宗亨(重家)といわれています。

宗亨は104歳まで生きたといわれますが、

生年が確かでないため、正確な没年例は不明です。

 

 

次男・石田重成(いしだしげなり)

天正17年(1589年)?

母は、皎月院(宇多頼忠娘)です。

 

豊臣秀頼の小姓として仕えていました。

関ヶ原の戦いで、西軍が東軍に大敗し、

父・三成の居城佐和山城も落城したことを知り、

津軽信建の助けで、陸奥国津軽に逃れました。

 

 

津軽藩には、妹の辰姫が北政所の養女として嫁しています。

 

津軽氏に匿われ、慶長15年(1610年)

4月28日に若死にしたという説が一つ。

慶長15年頃まで隠棲し、その後出府。

寛永18年(1641年)に53歳で死没したという説があります。

 

 

重成の子(三成の孫)

杉山吉成、石田掃部、成保(嘉兵衛)

重成の長男・杉山吉成

石田三成の次男・重成の長男

杉山吉成は、津軽信枚(弘前藩主)の

娘を妻にします。

 

その後出世し、寛永21年(1644年)には、

1300石知行、御証人役加判となります。

寛文9年(1669年)、蝦夷地で起こった

シャンクシャインの戦いで、

弘前藩侍大将として渡海しています。

子孫は、弘前藩重臣として存続します。

 

杉山家歴代当主です。

○石田重成

○杉山吉成

○杉山吉煕

○杉山成武

○杉山成胤

○杉山成総

○杉山成務

○杉山成充

○杉山成章

○杉山成務

○杉山成範

○杉山成知

○杉山壽之進

7代目当主の杉山成総は、享保17年に

家督1000石を継ぎ、旗奉行となります。

元文3年に家老となます。

 

やはり、三成の子孫は、

頭脳明晰な方が多かったようです。

 

13代目当主の杉山成知(1841-1895)は、

家老として幕末の弘前藩で

リーダーシップを取ります。

始めは佐幕派に導きますが、

後に新政府側に付き、

箱館の戦いで幕府残党を掃討します。

13代目、250年を過ぎて

関ヶ原の戦いのリベンジなんて、

歴史は悠久の時の流れを感じさせて、

ロマンティックですね!

 

14代目当主・杉山壽乃進(1864-1945)

東京大学法学部に入学。

その後、東奥義塾で教頭、塾長を務めます。

青森県内屈指の頭脳明晰と謳われたそうで、

やはり、遺伝って恐ろしい!

 

 

三男・石田佐吉

 

関ヶ原の戦いの折、

佐吉は佐和山城に篭もっていました。

 

佐和山城は、東軍に包囲されています。

開城交渉に当たっていたのは、津田清幽

 

徳川旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた者でした。

交渉最中に、豊臣家家臣・長谷川守知が裏切り

小早川秀秋、田中吉政の兵を城内に引き入れたのでした!

 

これにより、石田正澄、父の正継が自害してしまいます。

 

この違約に激怒した清幽は、

家康に佐吉ら生き残りの助命を嘆願します。

 

やはり、家康はさすが天下を取る程の器の人。

むやみな殺生はしません。

佐吉を助命し、出家を許します。

佐吉は三成と縁が深かった

木食応其の弟子となります。

法名は、忠義の臣・清幽への感謝から

清幽と名乗ったそうです。

清幽は、命を懸けて主君の遺児を守りました!

忠義の主君には忠義の臣!

そして、子もまた、忠義心が何か判る

そんな人でした!

 

 

長女:石田家臣・山田隼人の室

 

石田家臣・山田隼人正に嫁します。

山田隼人正の叔母は、家康の側室・茶阿局でした。

その縁を頼り、妻(三成の長女)と共に

松平忠輝に2万5000石で仕えます。

 

忠輝改易後は、三成の三女・辰姫の縁で

津軽藩から捨扶持150石を賜り、江戸で余生を送ります。

子孫は津軽藩士となったといわれています。

 

次女:蒲生家臣の岡重政の室。

岡重政が蒲生家のお家騒動に

関与したとして、切腹処分になります。

 

その後、若狭国に住み、小浜で亡くなったと伝わっています。

 

子の岡吉右衛門の娘(三成の曾孫)は、

徳川家光の側室・お振の方(自証院)

となり、家光の長女・千代姫を産みます。

大奥の世界ですね!

そっか、家光の乳母は春日局!

春日局の側近には、光秀の嫡男・済院宗亨(重家)に

禅を教授された、祖心尼がいます!

 

 

千代姫は、尾張徳川家に嫁ぎ、

血脈は7代藩主・徳川宗春まで続きます。

その縁で、吉右衛門の子孫は

尾張藩士となったそうです。

千代姫の次男は、高須松平家の祖となり、

NHK大河ドラマ・八重の桜でも有名になった

会津藩主・松平容保へ血脈が続きます。

 

こちらもロマンです~~!

幕府の為に、最後の最後まで

君臣一体となって戦った

あの会津のお殿様に、石田三成の血が流れているなんて!

こちらは、裏切らない血が脈づいていたのでしょうか?

 

 

三女・辰姫

北政所・高台院の養女です。

弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室となります。

 

その後、家康の養女・満天姫を

正室として迎え入れたため、側室に降格されます。

住いも弘前藩の飛び地、上野・大舘に移りますが

藩主・信枚は参勤交代の折に立ち寄ります。

大舘で平蔵(三代藩主・信義)を出産後、

33歳で亡くなります。

でも、三成の孫が三代藩主になっていますからね!

よほど、信枚の愛情が深かったのでしょう。

※上記三成の子らは、すべて正室・皎月院からの所生です。

 
他にも側室が産んだ庶子がいたとのことですが、詳細は不明です。

 

 

 

石田三成の家紋

定紋は定かではありませんが、

「大一大万大吉」だいいちだいまんだいきち

これが有名ですよね。

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家紋というより、旗印のように

使っていたようです。

 

意味は

「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば

 太平の世が訪れる。」

だそうです。

何だか今のご時世にもピッタリですね!

 

確かに、私利私欲を失くせば

自他ともに楽になります。

 

 

もう一つは、九曜紋(くようもん)

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元々、インドから中国、日本へと

伝来したもので、平安時代以降から

信仰の対象として、貴族や武士が用いたようです。

九曜の意味は、

「インド天文学やインド占星術が扱う9つの天体と

 それらを神格化した神。

 9つの惑星という意味で、健康や収穫に

 大きな影響を与えるとされています。」

 

 

下り藤

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こちらも実際に三成が家紋として

使用していたかどうかは定かではありません。

意味は

下り藤の「藤」は、藤原氏の「藤」で

血縁や関係の家、あやかりたい家が使ったようです。

 

 

石田三成の逸話

秀吉と三成

○三献の茶

これはもう、有名すぎですね。

近江の国伊吹山の観音寺。

鷹狩の帰りに喉が渇いた秀吉が立ち寄ります。

茶を所望した時、寺小姓(三成)は

最初は大きめの茶碗にぬるめの茶をなみなみと。

次に、やや小さめの茶碗にやや熱めのお茶を、

最後は、小さい茶碗に熱い茶を出した。

この寺小姓(三成)の気配り、

知恵に感服した秀吉は、家臣として召し抱えた。

というものです。

もうこれは有名すぎて、

誰でもご存知の逸話。

でも、三成の類まれな能力を見抜いた

秀吉公も、やはりただ者ではなかったといことでしょう!

 

ちなみに、JR長浜駅前には、

「秀吉公と石田三成公出逢いの像」があるそうです。

 

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○九州加増移封の逸話

これは、三成の主君に対する

心がけというか、仕事と

どう取り組んでいたか、という

心構えがとっても良くわかる逸話です。

三成の検地の功により、

秀吉は九州に33万石の領地を与えようとします。

ところが三成はこれを断ります。

自分が九州の大名になってしまうと

大阪で行政を担当する者がいなくなり

国政に支障が出る。

というのが理由だったそうです。

なので、真っすぐなんですよ。

なにもかも。

 

 

普通だったら、自分はこんなに

組織に貢献しているのだから、

もっと俸給を沢山くれよ!

っていうのが、現代風ですかしら?

 

でも、三成は違いました。

頂くお金より、豊家のことが大切だったのです。

 

 

大谷吉継と三成

○吉継の膿

秀吉の茶会でのこと。

 

茶を一口ずつ回し飲みしていました。

らい病を患っていた吉継は、

飲む振りをして、茶碗を回すつもりでした。

ところが、不注意で顔から出た膿が

茶碗に入ってしまいます。

 

以降の大名は、飲む振りだけで

茶碗を回しましたが、

三成だけは、茶を全て飲み干したという逸話です。

真っすぐな人ですから、三成は。

親友の物なら、膿でも飲み干すんです!

 

その他、大谷吉継は関ヶ原の戦いに

西軍・三成方として参戦するにあたり、

三成に諌言した逸話なども残っていますが、

それは、また別記事で。

 

 

島左近と三成

自分の俸禄を半分渡す!

 

勇将で聞こえた島左近。

仕官の話を断り続けて来ました。

しかし、三成は三顧の礼を持って迎え入れます。

関連記事⇒真田丸33話ネタバレ&あらすじ「動乱」!島左近(玉置孝匡)登場!

三成の知行が4万石だった時、

2万石を約束して、重臣として迎えたのです。

 

以降、関ヶ原の戦いで討ち死にするまで、

島左近は三成を支え続けます。

 

実は、島左近の娘・珠は、

徳川家重臣・柳生家に嫁いでいます。

 

関ヶ原の直前に、家康は柳生宗矩を

左近の元に送り込みます。

もちろん調略のためです。

しかし、左近は決して裏切りませんでした。

 

「主の悪口になるが、主は決断が遅くそのためにいつも失敗する。

 わしは主に徳川殿に味方する諸大名にへりくだり、

 遺恨を無くすよう取り計らい、彼らと交わり親しむべきと申したのだが、

 主は一時逃れでへりくだるのは嫌だと申して受け入れぬ。

 とはいえ、わしは主を裏切れぬ。お許しあれ」

 と述べた。

 引用https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90

長年親交がある、友人の誘いだったのでしょう。

主君・三成に足りない部分があるのは

重々承知しながらも、裏切ることは露ほども思っていない。

 

柳生宗矩は、最初から島左近が

主君を裏切るとは、思っていなかったそうです。

 

 

三成の城

佐和山城が落城した時に、

三成は殆ど蓄えを持っていなかったといいます。

城の作りも恐ろしく質素

家康と共に陥落した佐和山城に赴いた

板坂朴斎は、佐和山城に金銀が少しもない事に驚いたといいます。

元々三成は、常からこう述べていたそうです。

「奉公人は主君より取物を使ひ合せて、残すべからず。

 残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人なり。」

 老人雑話

これを実行した人でした。

 

 

関ヶ原で敗れ、処刑されるまでの逸話

関ヶ原で敗れた三成は

自領である近江国古橋村に潜伏します。

 

実はこの古橋村は、かつて飢饉に襲われた際、

三成が村人たちへ米百石を分け与え、救った村でした。

 

ここで与次郎という村人が、

その時の恩義を返そうと、

命を賭して、三成を匿ったのです。

 

 

ところがすでに、徳川方からは、

○三成を生け捕りにしたらその村の年貢を永久に免除

○三成を殺したら、賞金百両

ただし、もし、三成を匿ったら、

○当事者は勿論、親族、村人全員処刑する。

このような触れが出されていました。

三成はこれを知って、与次郎に類が及ばないよう説得します。

最終的には与次郎もこれを受け入れ自首します。

こうして、三成は徳川の手に捕えられます。

 

 

処刑前に家康は、

安国寺恵瓊、小西行長、三成に小袖を与えたそうです。

恵瓊と行長は有り難くこれを受け取ります。

しかし、三成は違っていました。

どこまでも真っすぐです!

「この小袖は誰からのものか?」

と聞き、

「江戸の上様(家康)からだ」

といわれると、こう言ってのけたそうです!

 

「上様といえば、秀頼公より他にいないはずだ。

 いつから家康が上様になったのか。」

 

戦に敗れても、石田三成ここにあり!

気概は捨てていません!

 

こうでなくちゃ!

 

秀吉公もあの世でほくそ笑んでいたでしょうね。

「佐吉、それでよい。」

とか何とか言って(笑)

 

実は、三成の逸話はまだまだ沢山あるのです!

一記事では伝えきれないくらいに!

なので、折に触れ、追記していきたいと思います。

特に今年は、NHK大河ドラマが

「真田丸」ですから。

石田三成公が、クローズアップされることも多いですから。

関連記事⇒真田丸32話ネタバレ&あらすじ「応酬」

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました!

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