小早川秀秋は大谷吉継の呪いが死因?関ヶ原での裏切りは想定内だった!

小早川秀秋の死因については、毒殺や小姓による返り討ち、はたまた大谷吉継の呪いが原因では?

等々、諸説あります。

 

また、最近では、小早川秀秋が関ケ原の戦いで西軍を裏切り、東軍に寝返ったのは肝臓疾患で判断力が鈍っていたからだという新説も出て、話題になっていますよね!

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本記事では、ドラマや映画で関ヶ原の戦いでの裏切りだけがクローズアップさされることが多い小早川秀秋の生涯を振り返り、諸説ある死因の真相を探ってみたいと思います。

 

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小早川秀秋の生涯

幼少期から大出世

小早川秀秋は、天正10年(1582年)、秀吉の正室・寧(北政所・後の高台院)の兄・木下家定の五男として生まれます。

 

母は、杉原家次の娘です。

 

幼名を辰之助といい、5男ですから、家を継ぐ必要もなかったため、実子がいない秀吉の養子となります。

 

天正13年(1585年)3歳の時に養子になり、養育したのは北政所・寧様です。

ここから先は、考えられないほどの大出世です。

 

天正16年(1588年)4月、6歳の時に、豊臣秀吉の代理として天皇への誓いを受け取っています。

元服してからは、木下秀俊、後に羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗りました。

そして、天正17年(1589年)わずか7歳で丹波亀山城10万石を与えられています。

さらにその3年後の文禄元年(1592年)には、従三位・権中納言兼左衛門督に任じられ「丹波中納言」と呼ばれるようになります。

 

 

物心つくかつかないかの時から、秀吉の代理で天皇に謁見し、7歳で10万石の大名で、10歳で中納言ですから人格形成に多大な影響を及ぼしそうな栄達です!

 

周囲の諸大名も、関白・秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者とみていました。

 

 

人物像

幼い頃は芸事(蹴鞠・舞)に秀で、優しい性格だったと言われています。

 

秀次もそうですが、幼い時から苦労知らずで育っていますから、おっとりしていたようです。

ただ、酒の味を覚えてからは、夜通し飲み明かすなど、北政所・寧様の悩みの種だったといいます。

 

ちなみに、北政所・寧様には5百両にも及ぶ借金をしていたそうです。

 

酒におぼれ、贅沢三昧していた、ということでしょう。

 

少し、羨ましいです(笑)

 

 

秀頼誕生で運命が大転換・小早川家の養子となる

小早川秀秋の運命が大転換するのが、秀吉の嫡男・秀頼が誕生してからです。

 

 

文禄2年(1593年)秀吉57歳の時に生まれた秀頼。

誰が考えても、秀吉最後の後継ぎ誕生となることは間違えないですよね。

母親は、言わずと知れた淀殿茶々様です。
関連記事⇒淀殿茶々様の生涯と性格は?北政所との関係や秀吉の父親が誰か考察した!

 

 

秀頼が誕生した時点で、豊臣家の跡継ぎとしての地位を失った秀秋は、秀吉の命令で小早川隆景の養子となります。

この時から、羽柴秀俊は小早川秀秋と名乗ることになったのです。

 

秀吉は最初、毛利輝元の元に養子に出す予定でしたが、これを聞いた毛利家は、お家を乗っ取られると大慌てします。

本来であれば、豊臣家より毛利家の方が遥かに高い家柄ですから、毛利本家に秀俊を養子に入れるなどとは、考えられないことだったのでしょう。

知恵を絞ったのは、毛利家の実質的な統率者であった小早川隆景でした。

 

毛利輝元には、元就の四男・穂井田基清の子・秀元を後継に決め秀吉に紹介します。

 

その後、実子がいない小早川隆景が、羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を自分の養子に貰いたいと願い出たのです。

当然これは認められ、文禄3年(1594年)小早川秀秋の誕生となったのです。
(実質秀秋を名乗るのはもう少し後になります。)

また、小早川隆景はこの養子縁組により中納言の官位を与えられ、以後豊臣家の五大老として君臨します。

 

 

まだ、弱冠12歳。

 

子供ですよ。

それまでは、豊家の後継候補№2ですから、ちやほやされてきたことでしょう。

酒は飲み放題、逆らうものは足蹴にし。

しかし、これからはそうはいきません。

思春期に差し掛かってのこの環境変化は、ますます酒量が増える原因になったのではないでしょうか?

孤独感は半端なかったでしょうね。

 

 

そんな小早川秀秋にさらなる悲劇が待ち受けていました。

秀次切腹事件です。
関連記事はコチラ⇒豊臣秀次の切腹事件なぜ?側室30人と子女まで三条河原で処刑も子孫は残った!

 

文禄4年(1595年)、小早川秀秋は豊臣秀次事件に連座させられ、丹波亀山城没収の憂き目に遭います。

秀吉に実子ができたとたん、養子に出され、今度は従兄弟に連座させられ領地没収とは。

秀頼の誕生を恨む気持ちになったのかどうか。

 

もし、管理人が同じ立場だったら恨みますね。

理不尽だと、泣きますね。

あの世で秀秋公にお尋ねしないことにはわかりませんが。

 

ところがここで小早川秀秋を救ったのが、他でもない養父・小早川隆景でした。

隆景はその年の内に隠居し、所領30万7千石といわれる筑前(名島城)を、秀秋に相続させます。

 

隆景はこの時すでに、病を患っていいたともいわれており、2年後の慶長2年(1597年)小早川秀秋15歳の時に病死します。

 

 

 

慶長の役から帰国後、謎の転封

小早川秀秋は、慶長2年(1597年)秀吉の命令で朝鮮へ出兵します。

しかし、主な任務は城普請だっといわれています。

慶長3年(1598年)1月にようやく帰国の途につきますが、待っていたのは越前北の庄15万石への転封命令でした。

 

 

酷い仕打ちをしますよね。

命令を受け、海を渡って働いてきたものを、一気に30万7千石から15万石に減封ですから!

ここで、また恨みができました。

やれやれ。

 

 

原因は石田三成の讒言だと言われています。

 

慶長の役で不手際があったと、石田三成が秀吉に報告したことから、この減転封が決まったといわれていますが、確かな史料がない為何とも言えません。

石田三成もとことん悪者にされますね。

歴史は勝者の物ですから。

 

旧小早川領には石田三成が代官となって入ります。

 

 

関ヶ原の戦い勃発。

慶長3年(1598年)一代で天下人に成り上がった豊臣秀吉が死没します。

秀頼は数えで6歳。

 

しかしこの時、豊臣政権内部には、秀頼を支えるだけの組織力が育っていませんでした。

いや、育った2代目を根絶やしにしたのが秀吉本人です。

 

豊臣政権は五大老による合議制で運営され始めます。

 

権力を持った徳川家康は、慶長4年(1599年)秀吉の遺命ということで、小早川秀秋に旧領の筑前名島30万7千石へ復帰させます。

 

秀秋は家康に感謝したことでしょう。

 

徳川家康が、直江状から端を発した上杉討伐出陣中、石田三成が挙兵します。
関連記事⇒直江兼続、兜に愛!景勝と共に歩んだ生涯。真田丸のキャストは村上新悟

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの勃発です。

 

この時、小早川秀秋は西軍(石田三成側)に与していますが、じつは黒田長政らに調略によりすでに東軍(徳川家康側)に与する約束をしていたようです。

思えば、秀頼が生まれるまでは、下にも置かないように可愛がられていましたが、秀頼が生まれて以降は酷い仕打ちの連続です。

それに比べて、家康に対しては、恨みがあるわけではありません。

 

東軍への寝返りに関して、黒田長政は「北政所・寧様の為に動いている」という連書状を携えていたといいますが、これに関しては真偽のほどはまだ決着が着いていないようです。

 

したがって、秀秋の西軍裏切りは、合戦中に家康から脅されたからではなく、事前の打ち合わせ通り。

多少時間に差はあったかもしれませんが、想定内だったということが言えます。

 

 

秀秋は、1万5000の兵を率いて、松尾山に陣取ります。

午前8時に始まった戦は、午前中は西軍有利に展開していきます。

 

その間秀次は戦を傍観しており、苛立った家康から催促の鉄砲を撃ちかけられたと言われています。

しかし、現在では、これは地理的条件等で困難であったのでは?ともいわれています。

 

いずれにしろ、膠着状態の戦況を一変させたのが、小早川秀秋の東軍への寝返りです。

 

松尾山を下った小早川秀秋は、一気に大谷吉継の陣へ攻めかかりました。

 

大谷吉継勢は、平塚為広・戸田勝成と共によく戦いますが、小早川勢の離反と同時に寝返った脇坂安治・栃木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、討ち死にします。

これにより、西軍は壊滅状態となり石田三成は伊吹山中へ逃亡します。

 

石田三成は、やはり人望が無さすぎですし、戦下手ではお墨付きがありますから。
関連記事⇒忍城(おしじょう)の攻防と成田長親の生涯!石田三成のしくじりに秀吉激怒

関ヶ原の戦いの論功行賞により、秀秋は岡山藩55万石に加増・移封されています。

 

 

しかし、この戦いから2年後、21歳という若さで亡くなっています。

 

 

小早川秀秋の死因は大谷吉継の呪い?

21歳というあまりにも早すぎる死に、その死因については諸説取り沙汰されています。

① 大谷吉継の呪い

吉継は戦況が厳しくなると、病んだ首を敵に晒してはならぬと自刃し、家臣に首を土中に埋めさせたとか、陣羽織に包み持ち帰らせたとかいわれています。

その自刃の際に、このような言葉を残したといわれています。

「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」

吉継の亡霊に悩まされた秀秋は、ついに狂乱し死亡した、という説。

しかし、金吾中納言・小早川秀秋が東軍に寝返るのではないかという噂は戦前からあったわけです。

そのため、関ヶ原で勝利の後は、秀頼が成人するまで、秀秋を関白職につけるなどの餌をぶら下げて、味方に引き入れようとしています。

したがって、大谷吉継にとって秀秋の裏切りは予想が付いていたことであり、決して不意打ちではなかったわけです。

豊臣恩顧の大名で東軍についた諸将は、他にもいますから秀秋だけが呪われるのは合点がいきません!

 

 

② 領地巡察中に農民により殺された。

秀秋の暴政に怒った農民から、急所をつぶされ頓死した、という説もあります。

メチャクチャ痛そうなので、これなら大谷吉継の呪いの方がましな気がしますが・・・。

しかし、秀秋の暴政というよりは、宇喜多秀家の旧領を受け継いだことから、関ヶ原で裏切った秀次に対する領民の恨みが強かったのかもしれません。

 

 

③徳川家康による毒殺

毒殺に価するほど、豊臣家で力を持っていたわけではありませんので、これはないように思えます。

 

 

④小姓による返り討ち

これは、管理人は初めて聞きましたが、酒に溺れた秀秋が刀を振り回し暴れているところ、小姓が返り討ちにした。

というものらしいですが、主家が存続して初めて小姓が成り立つので、これはあまり考えにくいでしょう。

 

 

⑤酒の飲み過ぎによる肝臓疾患。

秀秋は、どうやら10代の頃からお酒を飲んでいたようですから、量を過ごしていたとしたら、20代で肝硬変、肝臓がんという図もありでしょう。

 

肝臓疾患は、悪化すると肝性脳症を起こし正確な判断力が無くなりますから、家臣から見ると「狂乱」とも捉えられたでしょう。

はばたき震戦といって、鳥が羽ばたく時のように手が震えるというような症状も出ますので、呪いや祟りに見えることもあったでしょう。

 

元々酒好きだったところ、秀頼が生まれてからのあまりの仕打ちに耐え切れず、酒浸りになった。

挙句、アルコール中毒⇒肝硬変⇒肝がん⇒永眠

 

こんなに色々説があったら、どれかなって思います。

ただ、最近当時の医師による秀秋の診療録なるものが見つかっています。

それには、過度のアルコール摂取による内臓疾患を示すような症状が記されているといわれています。

従って、第5説が有力なようです。

 

関ヶ原の戦いで西軍を裏切ることは、秀次にとって想定内だった。

前にも書きましたが、秀秋が西軍を裏切ることは、戦前からのお約束。

想定内だったということです。

 

黒田長政が中心となって、秀秋の調略を行っており、家康にも本戦が始まる前にこの事は伝えられていたといいます。

 

現に、東軍からお目付け役が差し向けられていたようです。

黒田長政から大久保猪之助、家康から奥平貞治がお目付け役として秀秋の元へ赴いています。

 

さらに西軍の大谷吉継も、小早川秀秋の動きに不審なところがあることは察知していたからこそ、合戦に勝利した時には「関白」の地位を用意するとまで言ったのでしょう。

 

要するに、突然の裏切りではなく、十分想定内の裏切りだったといえます。

 

 

秀秋の生涯を振り返った時、幼少から官位を与えられたり、大きな領土を与えられたりと一見華やかなようにみえます。

しかし、実情は秀吉に振り回されただけで、思うように兄弟達と遊ぶ事も出来ない幼少期だったといえます。

それが秀頼が生まれてからは、掌を返したようなひどい仕打ちの連続。

秀次の事件も、我がことのように震撼したことでしょう。

 

西軍が勝って、関白職を得てもどのような陰謀を企てられるか知れたものではない、と秀秋が思っても仕方がないようなことを秀吉は行ってきました。

 

秀吉が親族に行った残酷な仕打ちは、ブーメランのように後継者・秀頼に返っていくことになります。

 

因果応報と言ってしまえばそれまでですが、秀頼が哀れな気もします。

 

 

小早川家のその後

小早川家は秀秋の死後、継承者がいないということで徳川政権により断絶となっています。

ただ、伝承では、秀秋の死後側室が生んだ羽柴秀行という子がいたと伝わっています。

 

その子は秀秋の兄・羽柴勝俊が養育し、その後家臣となったといわれています。

あくまでも、異説ですが。

 

 

豊臣家は、1615年徳川家康に攻め滅ぼされます。

 

小早川家は明治以降、毛利本家が願い出て、勅命によって再興されています。

 

 

 

まとめ

 

小早川秀秋は、北政所・寧の兄・木下家定の五男として生まれますが、僅か3歳で秀吉の養子となります。

 

幼い頃から官位を与えられ、大名として領地も与えられますが、秀頼が生まれて以降は不遇な目にあいます。

 

 

まず、小早川家へ養子縁組させられます。

秀次が謀反の疑いをかけられ処刑されると、連座して領地没収。

かろうじて養父・小早川隆景の領地を継承したため大名としての面目を保ちます。

慶長の役では、明確な理由もないまま領地を減転封させられます。

 

 

これらのこともあってか、元来酒好きだった秀秋は酒浸りで体を痛めていたといわれています。

 

 

その後の関ケ原の戦いでは、午前中は静観していたものの、一気に大谷勢に襲い掛かり西軍敗北を決定づけます。

小早川秀秋といえば、この関ヶ原での西軍裏切りだけがクローズアップされることが多いです。

しかし、その生涯を振り返った時、秀吉に生涯振り回された、哀れな青年の姿が見て取れます。

 

 

関ヶ原での裏切りは、秀秋にとっても周囲にとっても想定内の事だったでしょう。

死因は諸説ありますが、アルコールの多飲による内臓障害(肝臓疾患?)による死亡説が最有力のようです。

 

 

大谷吉継は、器が大きい武将です。

死は覚悟の上の戦だったろうと思います。

それなのに、死してなお恨みを募らせ、亡霊となって呪うなどという愚かなことはなさらない方のような気がします。

 

皆様はどう思われますか?

では、本日も最後までお読みいただき有難うございました。

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