忍城(のぼうの城)の攻防と成田長親の生涯!石田三成のしくじりに秀吉激怒。

NHK大河ドラマ「真田丸」では、今まさに豊臣秀吉による小田原征伐が行われています。

 

21万ともいわれる大軍を擁しての戦国最後の大戦で、忍城には石田三成率いる2万3千騎ともいわれる大軍が押し寄せました。

 

しかし、映画「のぼうの城」でも描かれた、成田長親が守る忍城は、僅か数千の兵で城を守り通します。

 

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このあたりは、映画でもドラマティックに描かれましたので、ご存知の方が多いのではないかと思います。

 

大軍で取り囲み水攻めまで行ったにもかかわらず、忍城はなぜ「落城」しなかったのか?

 

そこには、‟戦下手”石田三成のしくじりが浮き彫りに!

忍城を最後まで守り抜き開城に至った成田長親のその後の生涯は?

についてまとめました。

 

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忍城の攻防

小田原攻め始まる

豊臣秀吉の小田原攻めが決まると、成田氏当主・成田氏長と成田泰親は、小田原籠城に参加します。

そのため、城代として忍城を守ったのが成田泰季とその嫡男・長親、城主氏長の娘・甲斐姫達でした。

 

ところが開戦直後に、父・成田泰季が病死したため、成田長親が指揮を執ることになります。

 

この、成田長親さんが、映画「のぼうの城」の主人公で、野村萬斎さんが演じられました!

 

忍城は、守りやすく攻めにくいと謳われた、関東七名城の一つに数えられていました。

 

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長親らは、籠城の構えを取り、城内の兵のみならず、農民まで動員し城を守ることにします。

それでも総勢3000名ですから、本来であれば多勢に無勢だったはず。

 

 

 

忍城を攻めあぐねる豊臣軍

天正18年(1590年)6月16日から始まった忍城攻め。

当初は易々と落とせる算段の豊富方でした。

 

しかし、忍城は沼や河川を有効利用した堅城です。

 

頭脳明晰な石田三成は、丸墓山古墳に布陣し、地形を研究します。

そして、利根川の水を利用して、備中高松城攻めのように、水攻めにしようと考えます。

しかし、これは秀吉の命であったともされています。

 

 

忍城水攻め

石田三成は、近辺の農民などに米や賃金を渡し、忍城の周りに『石田堤』といわれる巨大な堤防を築きます。

その中に利根川の水を注ぎ込み、城を孤立させ、食料等の補給を断つ算段でした。

 

5日間という短期間で全長28kmといわれる堤防を完成させ、一気に川に水を流し込み忍城は水の中!

 

ところが、備中高松攻めのように上手くいかなかったのです。

残念なことに、本丸は沈まず‟忍の浮き城”と呼ばれることになったそうです。

 

 

そしてさらに、この後豪雨が降り、本丸まであわや撃沈か!という時。

下忍口守備の本庄泰展は家臣・脇坂利助と坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせます。

脇坂と坂本は、堤防2ヶ所を破壊します。

 

 

このため、豪雨の影響で貯まりきった水が溢れ、豊臣軍に襲い掛かりました!!

このため、豊臣兵270人が犠牲となります。

 

 

さらに、水が抜けた後の忍城周辺は、沼地のような有様で、馬の蹄も立たない泥沼と化していたのでした。

 

 

水攻め、大失敗です!

それは何故でしょう?

 

・常から成田氏は領民に善政を敷いていたため、戦となると全ての領民が応援態勢に入った。

・堤防工事に動員された農民たちの中には、城中から来た者もおり、仕事が終わり賃金を貰ったらそれで食料や水を買い、城中に戻っていた。

 したがって、忍城はいつでも物資が豊富であった。

・領民たちは、忍城を落とすための堤防を手抜き工事で作った。

・城中で女性である甲斐姫たちも鎧を着て奮戦したため、城内の士気は衰えることがなかった。

 

 

 

 

石田三成のしくじり!

水攻め失敗、その後豊臣方に援軍到着!三成のしくじりその②

6月下旬、石田三成の苦戦を聞き、浅野長政、真田昌幸・信繁父子ら6000の兵が援軍に来ます。

 

ここで、城を守っていた成田近江の守と市田太郎が、浅野長政に内通の意を伝えます。

 

ところがこれを聞いた三成は、功を浅野長政に奪われることを怖れ、もっと確実な内通があると長政を騙します。

 

騙されて行田口へ向かった浅野長政は、城兵に猛攻を仕掛けられ敗走してしまいます。

 

 

 

7月5日、いよいよ忍城総攻撃!三成しくじり、その③

 

 

7月に入り、忍城総攻撃が計画されます。

下忍口から石田三成、長野口から浅野長政、佐間口から大谷吉継が攻撃を仕掛ける予定でした。

ところが、功を焦った石田三成は抜け駆けしてしまいます!

これに激怒したのは、少し前に騙された浅野長政です。

浅野長政は、長束正家隊と共に、成田方の夜営部隊を蹴散らし、行田口に殺到します。

 

ところが、ここを守っていた今村佐渡守と島田出羽守

この部隊が良くこれを防ぎます。

 

そこへ、行田口猛攻の知らせを受けた正木丹波守が、浅野・長束隊の背後に回り込み猛攻を加えます。

つまり、浅野・長束隊は挟み撃ちになったのです。

これで、浅野・長束隊は600近い損害を出し敗走します。

 

 

佐間口を攻撃していた大谷吉継は、苦戦し前へ進めない状態でいたところに、正木丹波守隊が激突

これで打撃を受けた大谷吉継も撤退します。

最初に抜け駆けした石田三成は、背水の陣を敷く守将・酒巻靱負に猛攻撃に遭い、死者300、負傷者800という大損害を出し這う這うの体で敗走します!

 

 

惨敗です。

激怒する秀吉の顔が目に浮かびます。

 

 

これにより、石田三成は「戦下手」のレッテルを張られてしまいます。

これが大将ではネ~~。

やはり、負けますね。

頭脳明晰・冷静沈着といわれた石田三成、初めてのしくじりは、忍城での大敗でした。

 

 

 

忍城(のぼうの城)開城!でも、ひと悶着!

この日、小田原城が降伏開城し、小田原城に詰めていた成田氏長から使者が来ます。

北条が滅亡したことを聞き、成田長親らは軍議を開き開城へと話が進む、かと思いきや!

石田三成が提示した開城条件は、

「城から運び出せるのは馬一頭に載せられる分だけとする。」

でした。

これに、怒った長親や城兵は、再び籠城の構えを見せます。

 

城兵たちの士気は、まだまだ衰えていないところが凄いです!!

 

しかし、これを知った秀吉が激怒!

長親らの言い分もっともなり!と言い、自由にすることを許されます。

 

 

これにより、7月16日、忍城は開城となったのです。

この北条討伐で落城しなかった城は、この忍城のみだったといいます。

 

 

成田長親の生涯。

成田長親(なりたながちか)は、天文14年(1545年)、成田泰季の嫡男として生まれます。

忍城主・成田氏長は、叔父に当たります。

のぼうの城でも描かれていたように、領民からでくのぼうの、『のぼう様』と慕われていたのでしょうか?

その「のぼう様」長親が、が北条討伐が始まり、城代として父・泰季と共に忍城に入ります。

ところが開戦後すぐに、父・泰季が亡くなってしまいます。

思わず総大将になってしまいますが、少ない手勢で忍城を最後まで落城させず持ちこたえさせるとは、流石です!

 

 

忍城開場後は、当主・氏長と共に会津の蒲生氏郷の元に身を寄せます。

 

その後、下野国鳥山へと移り住みますが、氏長と不仲になり出奔します。

 

出家して自永斎と名乗り、全国を放浪の旅に出たともいわれています。

 

晩年は、尾張国に住み、映画『のぼうの城』で夏八木勲さんが演じた明嶺理察和尚の元で過ごします。

 

 

慶長17年(1613年)12月4日に死去しています。

 

享年68歳

戒名は青岩義伯菴主

 

菩提寺は名古屋市の大光院にあります。

 

 

その後成田家は、徳川家康に請われ尾張藩に召し抱えられます。

 

まとめ

天正18年(1590年)6月16日から石田三成を総大将とする豊臣方23000騎による忍城攻めが始まります。

三成は、忍城の周囲に巨大な堤(石田堤)を短期間で築きあげ、利根川の水を利用して「水攻め」の策を用います。

しかし、農民から僧侶まで、領民全てが忍城・成田氏の味方でした!

手抜きした堤は易々と壊され、逆に豊臣方に損害を出します。

 

水攻め失敗!

石田三成のしくじりは、他にもあり。

せっかく内通を持ち掛けられたのに、功を焦った石田三成が、浅野長政を騙し、敗走

 

 

忍城総攻撃でも、石田三成の抜け駆けで、大損害を出し大敗

総攻撃も失敗。

石田三成の三つの大きなしくじりにより、豊臣方は大敗します。

 

現代だったら、しくじり先生に出演依頼が来ますね!

 

このしくじりで、秀吉激怒!

開城条件も、忍城の思いのままとなります。

 

 

開場後、成田長親は会津の蒲生氏郷の元に身を寄せますが、叔父で当主の成田氏長と不仲になり出奔。

出家し、尾張国で最期をとげます。

ちなみに、映画『のぼうの城』が公開された2012年は、成田長親公の4百回忌だったそうです。

 

不思議なご縁ですね。

 

 

では、最後までご覧いただきありがとうございました。

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