豊臣秀次の切腹事件なぜ?側室30人と子女まで三条河原で処刑も子孫は残った!

男子が少ない豊臣家で、秀次は貴重な2代目であったはずです。

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なのに秀吉は、文禄4年「秀次謀反」の噂を盾に秀次を高野山へ監禁・切腹に追い込みます。

 

さらに秀吉は、秀次の30人ともいわれる側室とその姫君・若君まで京の三条河原で処刑します。

 

ところが、秀次の子女の中に、処刑を免れた子女がいました。

その娘は後日、真田幸村の側室になり、子を産みます。

 

真田丸では「たか」、岸井ゆきのさんが演じます。

 

秀次に殉死した家臣を入れると、悠に60名は下らないといわれる、豊臣秀次切腹事件。

事件の概要と原因、側室30人と子女の三条河原での処刑、生き残った秀次の子孫についてまとめました。

 

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豊臣秀次切腹事件とは

文禄4年(1595年)6月末、まるで降ってわいたように‟秀次謀反”の疑いが囁かれます。

 

内容は、鷹狩と称して反秀吉派が度々山中で談合をしている、という噂です。

 

7月3日、石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近などが秀次の居城聚楽弟を訪れます。

上記の噂の真偽を確かめに来たのでした。

もし、謀反の心が無いというのであれば、誓紙を出すよう要求したのです。

もちろん、謀反など寝耳に水の秀次は、すぐに神事を行い7枚継ぎの誓紙を渡しています。

この誓紙の提出は、『家忠日記』に記されています。

ただ、7月3日同日に秀次は朝廷や第一皇子、准三后らに多額の白銀を献納していることが『御湯殿上日記』に記されており

これが、疑いを招いた可能性は否定できないといわれています。

 

 

7月5日、石田三成が秀次が昨年春に毛利輝元と誓約を交わし、連判状をしたためていると報告します。

この報告を聞き、「親子の間柄なのだから、直に話そう。」と言い、秀次を伏見城に呼び出します。

 

呼び出しを受けた秀次は、これまた寝耳に水の話なので、本気にせず、すぐに伏見城には行こうとしませんでした。

 

 

この時すぐに行動していれば、あのような悲惨なことにはならなかったでしょうかね~~!

 

 

7月8日、秀吉の奉行・前田玄以、秀次の元養父・宮部吉継、元宿老・中村一氏・堀尾吉春・山内一豊が訪れます。

秀次に再び伏見に出頭するよう要請に来たのでした。

この時の様子は、記録に残っていますが諸説あります。

 

 

『甫庵太閤記』では、吉田修理が、もし疑われるようなことがないのならすぐに伏見に発つように。

もし、野心があって心当たりがあるのならば一万の軍勢を預けていただければ先陣を切って戦う、と啖呵を切ったので秀次はそれには及ばないと出頭を了承した。

 

 

『武家事記』では、上記に加えて、秀次は自ら積極的に冤罪を晴らすとして伏見に向かった。

 

 

『日本西教史』では、訪れた5名が五ヶ条の詰問状を示して謀反の疑いで秀次を弾劾したとされています。

清州城に蟄居するか伏見に来て弁明するかを命じたため、秀次は観念して伏見に向かったとされています。

 

『川角太閤記』や『利家世話』では、秀次を騙して侍医や小姓衆などわずかな供回りだけを連れて伏見に来るように謀ったとされています。

 

 

このように実際にいくつも記録があるところを見ると、やはり秀次は謀反の疑いをかけられて秀吉に呼び出された、或いは謀略にはまったことは間違いなさそうです。

 

 

決して自ら出奔した訳ではなさそうです。

 

 

伏見に到着した秀次は、秀吉と謁見どころか登城すら許されませんでした。

呼び出しといて、なんてこった!やはり、おびき出した感ありありですね!

 

木下吉隆邸に留め置かれた秀次は、秀吉と対面することなく高野山へ登るよう告げられます。

すぐに剃髪し、染衣を纏い、午後4時には伏見を出立しています。

 

7月9日、2、3百騎いた御供を、石田三成が多すぎると言い、小姓衆11名と東福寺の僧・虎岩玄隆(隆西堂)のみが付き添いました。

 

 

7月10日、高野山青巌寺に入りここで出家の身となります。道意、豊禅閤(ほうぜんこう)と号しています。

 

 

7月12日、秀吉は秀次に出入りの禁止と監視をさせ、ほぼ監禁状態にします。

 

 

7月15日、福島正則・池田秀氏・福原長堯らが兵を引連れ、秀次に賜死の命が下ったことを告げます。

これには、高野山・木食応其が寺院内での寺法を盾に、切腹を引き延ばそうと試みます。

 

しかし、福島正則に「秀吉に逆らえば高野山の寺院そのものが失われる」と恫喝され、それを見た秀次が切腹を受け入れたといいます。

 

 

ここまでの状況を見ると、やはり秀次の切腹は秀吉の命令によるもの、と思わざるを得ませんね。

 

 

小姓衆の山本主殿助・山田三十郎・不破万作の3名は秀次より賜った名刀で切腹し、秀次が介錯。

虎岩玄隆は太刀で切腹。

秀次は、雀部重政の介錯で切腹。

その後すぐに、雀部重政も後を追い自害します。

 

享年  28歳

 

辞世の句は

「磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」

 

 

7月3日に石田三成ら秀吉の奉行が訪れてから、わずか12日で監禁・切腹となっています。

異常な速さだと思いませんか?

まるで事前の計画通りに粛々と事を進めたような!

 

秀次に考える猶予を与えていません。

全く情のひとかけらも注いでいないです。

豊富政権にできつつあった2代目体制を根こそぎ根絶ですね。

それが秀頼のため、と秀吉は信じたのでしょう。

 

 

豊臣秀次の側室30人と子女、京の三条河原で処刑!

 

秀吉は、最初から秀次を殺すつもりでいたのでしょう。

 

妻妾や若君・姫君は、秀次が伏見城へ出向くことを了承した日、7月8日に捕えられています。

 

すでに、妻妾、子女すべて殺戮する心づもりであったようです。

 

最初は徳永寿昌宅に監禁し、その後丹波亀山城に移送します。

 

 

7月31日京都に移され、8月1日に翌日の処刑を通達、8月2日早朝から午後4時頃まで処刑が行われたということです。

 

三条河原は血に染まり、あまりの惨たらしさに、見物人からは罵詈雑言が浴びせられたと言います。

独裁者・秀吉の悪魔の所業は書くのもつらいです。

 

刑場は今では繁華街になっていますが、当時は三条木屋町通りから先斗町歌舞練場前につながる道路の入り口付近とみられています。

30メートル四方に掘られた穴に、処刑した亡骸を次々にほおりこんだといわれます。

まず、若君や姫君を処刑し、北政所が助命嘆願した一の台様は、妻妾の内で真っ先に処刑されたそうです。

中には、秀次とは顔をすら合わせていない、最上の姫君・駒姫様もおられ、こちらは淀殿茶々様が助命嘆願されたそうですが、処刑されています。

 

もうこれ以上は書けませんので、ご勘弁ください。

 

NHK大河ドラマ「真田丸」でも、この場面は描かれないでしょう!

有働由美子アナの胸つまるナレーションで終わりでしょうね。

 

 

秀次切腹事件。側室30人と子女処刑。ここまで秀吉を怒らせた原因は何か?

 

 

関白の位にあった人物を、出家させた上にさらに切腹を命ずる。

しかも眷属皆殺しで根絶やしにしています。

 

せっかく育った二代目を、自らの手で葬り去り、せっかく生まれた豊臣の血筋の若君を4人も処刑しています。

これは尋常ではありません。

ただ、秀頼を溺愛していたからだけではないように思えます。

 

秀頼を溺愛しているのならば、豊臣家に男子がいなくなるようなことをするでしょうか?

 

 

まず、黒田如水が予言している話があります。

黒田如水墓碑文に

「太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように。もしそうしなければ地位を失うだろう。」

そう言って、朝鮮出陣を促したにもかかわらず、秀次は聞き入れなかったそうです。

その他にも朝鮮への出陣を促されたという記録が残っていますが、秀次はついに出陣しませんでした。

如水の予言通りになったということです。

 

 

これは大きいですよね、原因としては。

朝鮮出兵は秀吉の愚業だとしても、他の諸大名は命がけで渡海しているのですから、2代目がぬくぬくしていてはまずいですよね!

 

ただし、秀次は‟燃え尽きていた”可能性があります。

秀頼が誕生してから、秀次は喘息を患い、度々湯治に行っていたと記録されています。

 

この喘息のために、朝鮮出陣ができなかったともいわれています。

自身が築いて来た2代目としての新体制が、少しずつぐらつき始めた予感というのは、相当ストレスだったでしょうね。

ましてや、実権は秀吉が握ったまま。

子飼いの家臣もこの時期はしっかりしているが、味方してくれそうな伯父・秀長は既に他界しているし・・・。

自分は秀吉に邪魔にされるのではないかという恐怖感はあったでしょう。

 

 

次に、秀次は聚楽弟の金蔵から、諸大名に多額の貸し付けを行っており、これが秀吉の逆鱗に触れたという説もあります。

 

これも、ありそうな話ですよね。

謀反の疑いをかけられた毛利輝元も秀次にかなり借り入れをしていたようです。

秀吉と秀次の関係が悪化したのを見て、借金の誓約書を謀反の誓約書として偽って秀吉に渡した、という説もあります。

 

強国・毛利と関白・秀次が手を組んで謀反を企てたら、日本はまた戦国に逆戻りですからね。

しかし、秀次の謀反を裏付ける正確な史料は、全く残っていないというのですから、やはり謀反説はねつ造でしょう。

 

 

最後は、秀次自身の素行の悪さ、「殺生関白」といわれるくらい残虐だった。

―と、通説ではいわれています。

しかし、これは約400年も前の戦国時代のお話。

秀次がやみくもに人殺しをしたと言う記録はどこにもありません。

 

 

さらに、秀次は秀吉から刀の目利きを命じられており、罪人などの処刑の折に、刀の試し切りをしていたことが伝わっています。

重罪人とはいえ、「刀の試し切り」はどうよ!って思うかもしれませんが、秀次は殉死した小姓たちの介錯ができるほどの腕利きです。

 

この時代であれば、それほど残虐な話ではないように思われます。

それりゃあよっぽど、秀吉の方が残虐です。

 

 

三条河原での処刑を免れ、生き残った秀次の子孫たち!

 

あれほど多数の側室、及び子女が三条河原で処刑されたにもかかわらず、運よく生きのびた子孫がいます。

何れも姫君ですが、たまたま他家に預けられる等して、3名が難を逃れたようです。

そのうちの一人が、九度山に蟄居した真田幸村の側室・隆清院となります。

 

真田丸では「たか」という名で描かれ、岸井ゆきのさんが演じます。

 

 

隆清院の母の名は不明で、生年も没年も不明です。

ただ、九度山で娘なほ(御田姫)をもうけ、真田幸村が大阪夏の陣で討ち死にした後に男子・幸信を産みます。

この子らは、真田幸村の兄・信幸が助命嘆願したといわれ、この時にも生き残ります。

 

 

御田姫は後に出羽亀田藩主・岩城宣隆の側室となり、2男1女をもうけます。

 

幸信は、三好姓(秀次がかつて継いでいた姓)を名乗り、姉・御田姫が嫁いだ岩城家に引き取られます。

 

 

なので、秀次の生き延びた子孫は、真田幸村の血と混ざり、傍流ではありますが繋がってゆきます。

 

 

まとめ

豊臣秀次切腹事件

この事件は、「秀次謀反」との巷の噂を確認するため、秀吉の奉行が秀次を訪ねるところから始まります。

 

しかし、あくまでこの謀反は、噂であり何の証拠もありませんでした。

それが、文禄4年(1595年)7月3日。→秀次、神事を行い誓紙を提出。

 

7月5日、毛利輝元との謀反連判状を元に、秀吉、秀次を伏見に呼ぶ。→秀次、何かの間違いだと思い、放置。

 

7月8日、再度奉行や秀次の元養父、宿老が秀次の元を訪れて、伏見に出頭要請。→説得に応じ伏見へ。

同日、妻妾・子女捕えられ、徳永寿昌宅へ預けられる。

 

7月9日、秀次は伏見城に登城さえ許されず、御供の家臣も数十人に減らされ、高野山へ

7月10日、秀次、高野山清厳寺で出家。

7月12日、ほぼ監禁状態となる。

 

7月15日、福島正則・池田秀氏・福原長堯らが秀吉の切腹命令を伝える。高野山・木食応其が抵抗するも及ばず。

 

秀次、切腹。

 

 

秀吉との関係が悪化した理由

・秀次が再三の朝鮮出陣に応じなかったこと。

・秀次が聚楽弟の金蔵から諸藩の大名に金銭を貸していたこと。

・毛利輝元が、借用書を偽造して謀反の連判状のようにみせかけた。

・秀頼の誕生

他、真偽のほどがはっきりしないものも多数。

 

秀次の側室30人、子女、京の三条河原で処刑

8月2日早朝から、京の三条河原で処刑。

まず、若君・姫君から。

午後4時ころまで。三条河原は血に染まります。

見物に来た観衆は、あまりの惨たらしさに刑の執行人に罵詈雑言を浴びせたという。

 

最上義光の娘・駒姫は、まだ秀次と顔すら合わせていないのに、処刑されます。

 

 

秀次の生き残った子孫は真田と繋がっていた!

関ヶ原の戦いの後、九度山で蟄居していた真田幸村の側室となった隆清院は、三条河原の処刑を免れた秀次の娘です。

 

真田丸では「たか」の名で、岸井ゆきのさんが演じます。

 

 

この「たか」・隆清院は、一男一女を設け、傍流ではあるが明治維新まで続きます。

 

補足ですが、この時に嫌疑をかけられた大名のほとんどが、徳川家康のとりなしで事なしを得ています。

 

 

これが後の関ケ原の戦いで、家康側・東軍へ味方する要因の一つになったのですから、皮肉なものですね!

では、本日もご覧いただきましてありがとうございました。

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