北条氏政の評価の真実は?最期は切腹を選んだ生涯を振り返る!

NHK大河ドラマ「真田丸」では、豊臣秀吉の再三の上洛命令にも従わず、徐々に滅亡への道を歩いて行こうとする北条氏政。

真田丸でのキャストは高嶋政伸さんですが、とても個性的に描かれていますよね!

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さて、北条氏政は関東の覇者・北条家を滅亡に導いた領主として、暗愚だったという評価や逸話が多いのですが果たしてそれは、真実なのでしょうか?

 

一説には、江戸時代になっても領民が北条の治世を慕い続けていたというお話もあるくらい、北条家は家臣・領民に対して善政を敷いていたようです。

 

確かに北条家は、北条氏政の息子・氏直の代で滅びます。

しかし、政治の実権を握っていたのは、氏政だと言われており、そのため暗愚な当主・氏政が、早雲以来の名家・北条家を滅亡に導いたと評価されたようです。

 

本日は、史実を紐解きながら、北条氏政の評価を改めて考察します。

さらに、大阪の陣のように「城を枕に討ち死に」を選び、最後の最後まで華々しく戦う事も出来たでしょうに、氏政は降伏し『生き恥は曝したくない。』と言い切腹して果てます。

誇り高き北条氏政がついには切腹を選んだ理由もまとめました。

 

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北条氏政は『暗愚』という評価は真実か?考察してみた。

 

北条氏政の生涯・生誕から北条家最大版図を築くまで

 

北条氏政(ほうじょううじまさ)は関東の覇者・後北条氏の第4代当主です。

天文7年(1538年)に父・北条氏康、母・瑞渓院(今川氏親の娘)との間に次男として生まれます。

長男の新九郎が夭折したために、永禄2年(1559年)次男である氏政が世継ぎとなります。

 

 

天文23年(1554年)、父・氏康が武田、今川両家と三国同盟を結んだことを契機に、武田信玄の娘・黄梅院と政略結婚をします。

この香梅院とは、非常に夫婦仲が睦まじかったのですが、武田との同盟が手切れとなった際に離縁させられています。

 

しかし、氏政は最後まで離縁を渋り、武田と再度和睦した際に、真っ先にこの香梅院の遺骨を貰い受けたそうです。

愛妻家で、情が深かったのですね。

 

 

北条氏政は、まさに武田信玄、上杉謙信、織田信長と同時代の大名であり、陣取り合戦の繰り返しで同盟したりそれを破棄したり目まぐるしいことこの上なしです。

 

 

要するに、生きるために必死だったのは真田だけではない、ということです。

 

ちょっとしたボタンの掛け違いで、滅亡の憂き目に合わされるのが戦国の習いです。

 

 

駿河の今川義元が永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで織田信長に破れると義元の嫡男・氏真は没落します。

しかし、この氏真には北条氏政の妹・早川殿が嫁いでいました。

 

 

この時北条氏政は、武田信玄から今川領国の割譲を持ち掛けられていますが、これを拒絶し今川氏真に加担します。

 

北条氏政は、掛川城に籠城する今川氏真を助けるため、三河の徳川家康と和議を結び今川氏真を保護しています。

 

北条氏政は、後に家督を譲る次男・氏直を今川氏真の養子とし、今川の家督を継承させます。

そして上杉謙信には弟の三郎を謙信の養子とし人質に出します。(ただし、人質が大嫌いな上杉謙信は、この三郎を気に入り景虎と名付けます。)

 

上杉家についてはコチラの記事をご覧ください
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上杉景勝の人物像に迫る、第2弾!真田丸では幸村に「義」を教える

北条氏政と、徳川家康との関わりは、こんなに早くから結ばれていたのですよ!!

 

なぜ、秀吉が北条を滅ぼしたのか、もうすでにこの頃から布石は敷かれてあったのですよ!

 

永禄12年(1569年)北条氏政31歳の頃、武田信玄に小田原城を攻撃されます。

北条氏政は父・氏康と共に籠城し、武田軍を撃退しています。その後撤退する武田軍を殲滅させようと、弟・氏照、氏邦らと共に挟撃作戦に出ますが失敗。

武田軍の進軍の速さに結局は敗北してしまいます。

 

 

元亀元年(1571年)父・氏康が病没すると北条氏政は武田信玄との同盟を復活させます。
この時に、泣く泣く離縁した愛妻の遺骨を引き取っているのです。

 

信玄と同盟してからは、三方ヶ原の戦いに2000余名の援軍を送り、徳川軍と戦っています。
三方ヶ原の戦いについてはコチラの記事をご覧ください。
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真田丸4話ネタバレとあらすじ!昌幸は武藤喜兵衛で三方ヶ原の戦いとは?

 

いかがです?暗愚ではないでしょう?
父・氏康には頭が上がらなかったようですが、近隣の諸大名と同盟や戦をしながらも、大敗はなく上手く運営していますよね。

 

 

天正2年(1574年)から天正8年(1580年)までは、上杉謙信、武田勝頼との合戦が続きます

 

一進一退を繰り広げる中で、天正8年(1580年)3月10日に北条氏政は織田信長によしみを通じています。

 

同、天正8年(1580年)8月、氏直に家督を譲ります。
しかし、父・氏康の手法を真似、実権は氏政自身が掌握したままでした。

 

 

いち早く織田信長に与した北条氏政は、織田信長が甲斐・武田征伐を始めると織田軍に呼応する形で進軍を始めます。

 

いかがです?暗愚でも凡庸でもないし、機を見るのに疎い、ということもないですよね!

ただ、この戦の後織田政権は、北条が自力で勝ち取った上野を奪い取ってしまいます。

北条氏政はこれに相当な不信感を抱いたようで、これが後の神無川の戦いに繋がり、ひいては織田家の跡を継いだ秀吉への慎重すぎる対応になったのではないでしょうか。

 

ところが、天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺で、織田信長は明智光秀の謀反により横死します。

 

これは、誰もが予想だにしなかった出来事でした。

でも不思議ですよね、これで秀吉が天下人になって行くんですから。変ですよね。

歴史って勝者の物ですからね~~。

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真田丸【大河】明智光秀のキャストは岩下尚史!『本能寺の変』なぜ?

 

この信長の横死により、かねてから滝川一益に不信感を抱いていた北条氏政は上野奪還のため神無川の戦いを起こします。

 

その後、若神子の戦いで北条氏直は家康と対陣しますが、真田昌幸の離反や鳥居元忠に敗北するなど不利な状況となります。

その為、氏直と家康の娘・督姫を婚姻させこれにより和睦を図ります。

領土は、甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることで合意します。

 

これで関東における、徳川・北条ラインの完成です。

 

この和睦の内容が真田・徳川対立の引き金となるのですから、絡んできますよね沼田城!

 

このことで、真田は上杉と手を組み、第1次上田合戦で徳川と戦うことになるのですから!

 

さらに、これが後々の沼田問題、名胡桃事件の伏線となるのです。

 

天正10年は実にその後の歴史に大きく影響する出来事が頻発しています。

 

織田信長亡き後の実権争いで、羽柴秀吉と柴田勝頼が対立すると、北条と敵対していた上杉景勝は大名の中でもいち早く秀吉と同盟します。

織田・北条に攻め立てられ、一時は滅亡の危機に瀕していた上杉家でしたが、この同盟により息を吹き返します。

この同盟に際し、秀吉は上杉景勝が北条氏政に「存分」があった場合、自分も北条と絶交するという誓いまで立てています。

 

上杉家と北条家は敵対関係にあることが多かったですし、景勝は北関東の反北条勢力と結託し、ここで、秀吉・上杉ラインの完成です!

 

 

ですから、すでに戦端はこの時から開き始めていたのですよ!
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真田丸21話あらすじとネタバレ!戦端を開くか閉ざすか、北条氏政の条件とは?

天正11年(1583年)足利義氏の死後、北条氏政は官途補任により権力を掌握。

天正13年(1585年)下野を攻略し下野の南半分を奪取。

 

こうして氏政は、後北条家で最大の240万石まで版図を広げていきます。

 

どうでしょう?歴代藩主と比べても、見劣りはしないでしょう?

 

ですが、先の徳川・北条ラインがこれから先肩にずっしりのしかかってきます・・・。

 

 

北条氏政の生涯・秀吉との対立が始まり、小田原討伐~切腹まで。

天正16年(1588年)秀吉は京の聚楽亭に後陽成天皇の御幸を成し遂げ、北条氏政・氏直親子にも列席を求めていました。

 

しかし、北条氏政はこれを拒否し、京の街にも「北条討伐」が囁かれるようになっていました。

 

 

徳川家康が氏政を説得し、氏政の弟・北条氏規が名代として上洛します。

そしてこの頃には、政治の実権全てを氏直に譲り自身は隠居し秀吉に謁見のため上洛すると家臣に告げていたと言います。

 

なので、氏政はいずれ近いうちには、上洛し秀吉に臣従する心づもりではあったようです。

 

天正17年(1589年)2月、外交僧である板部岡江雪斎が上洛し沼田城問題の解決を依頼します。

秀吉の「沼田裁定」により、沼田領の3分の2を北条の領地とする裁定を下し、氏政が12月に上洛する約束をし事は解決したかに見えました。

しかし、氏政が上洛の時期を12月から翌年天正18年の春・夏頃に変更を申し入れたことで秀吉との関係が再度悪化します。

そんな折に、名胡桃城事件が起きます。

 

これが決定打となり、秀吉は天正17年12月23日に諸大名に向けて北条討伐の陣触れを発します。

 

これに対し北条氏政・氏直親子は、北条領国内の家臣や国衆に対して参陣を命じ、迎撃態勢を取ります。

 

天正18年3月、豊臣の大軍22万を迎え撃ち、最初こそ真田・依田に勝利しますが後は多勢に無勢。

天正18年4月から約3ヶ月に渡り、小田原城で籠城作戦を取りますが、結局は降伏します。

 

 

降伏条件は、武蔵・相模・伊豆のみを領国とすること、北条氏直に上洛させること、という2項目でしたが秀吉はこの後この約束を破ります。

 

北条氏政に切腹を命じ、氏直を高野山へ追放する命を下したのです。

 

天正18年(1590年)7月5日、氏直が自分の命と引き換えに全将兵の助命を嘆願し降伏。

秀吉は徳川家康の助命嘆願も聞き入れず、北条氏政、弟の氏照、宿老の松田憲秀、大道寺政繁に切腹を命じます。

 

 

7月11日、北条氏政切腹。

享年 53歳

墓所は神奈川県小田原市と箱根町にあります。

 

 

でもこの時代の方は男女を問わず死に際して潔いですよね。
見事です。

 

「腹切るの~?痛そう・・・。あイタタタ・・。」
なんて、なしですから。

 

 

辞世の句も涼やかですよ。

「我身今 消ゆとやいかに おもふべき 空よりきたり 空に帰れば」

 

 

北条家のその後

徳川家康の娘婿であった北条氏直は何とか助命され、高野山に入ります。

翌天正19年(1591年)8月には、秀吉から1万石が与えられますが、11月に病死してしまします。

 

しかし、後北条氏は氏規が継承し、徳川政権時代には氏規の子・氏盛が狭山藩主となり明治維新まで続きます。

 

 

北条氏政の生涯を振り返って、評価したら、とても暗愚とは思えない!

 

こうして生涯を振り返ってみると、現代に語り継がれているような暗愚なだけの当主ではなかったような・・・。

氏政の汁かけ飯の逸話は、史実ではないとされています。

しかし、たとえこれが事実であったとしても、「暗愚」という評価はあまりに厳しいような気がします。

 

 

真田丸では、この汁かけ飯に関しては、「氏政の慎重さ」捉えているようですね。

 

 

北条氏政は、群雄割拠する時代に生まれますが、そのような中でお家を最大版図まで拡大します。

さらに、初代・北条早雲時代から役100年、「民を貴しとする」家訓を守り、善政を敷いて領民に慕われた当主です。

愛妻家で、兄弟仲が良く、有能な家臣を育て、上杉謙信や武田信玄と互角に戦ってお家を守って来たのです。

 

 

もう少し、高評価でもいいような気がしますよね。

 

外交手腕も捨てたものではありません。父・氏康が死没後すぐに武田信玄との同盟を復活させています。

それに、甲斐の名門・武田家が滅びる時には重臣らの裏切りが顕著で、あっという間に滅ぼされますが、織田信長の実力を認めて、早くからよしみを通じているところ見ると、人を見る目が無いわけではなさそうです。

 

 

決して、暗愚、無能と評価されるほど酷くないです。

秀吉があまりに時代の寵児・風雲児であり過ぎたのでしょう。

 

誇り高き関東の雄は、そのことを認めることが遅すぎただけです。

 

最期は秀吉に降伏し、弟や重臣らと共に切腹しますが、これにより将兵の命は救われています。

 

 

まとめ

北条氏政を再評価すると、「暗愚」などではない!

情が深く人を大切にする良き当主であったと私は思います。

 

 

しかし、秀吉を信じることにあまりに慎重であり過ぎた。

真田丸で、汁かけ飯を自分のペースでゆっくり、ゆっくり食べてゆくように・・・。

 

 

降伏し切腹する道を選ぶのは、関東の雄としては勇気が必要だったのではないでしょうか。

城を枕に、将兵共々討ち死にする道もあったやもしれません。

しかし、氏政はそれをしませんでした。

切腹の道を選びました。

これにより、将兵や城内の子女の命は救われました。

 

 

領民も、放火や略奪、凌辱などの憂き目に逢わずに済んだのではないでしょうか?

それは、北条滅亡後の領民たちが知っていたはずです。

 

本日も最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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