淀殿茶々様の生涯と性格は?北政所との関係や秀頼の父親が誰か考察した!

yododonocyacya

 

 

天下人・豊臣の秀吉の寵愛を受け
二人の男子を産んだ淀殿茶々様。

 

性格はプライドが高く、自己中心的で
鼻持ちならないなどと表現されることが
多いようですが、果たしてそうでしょうか?

 

淀殿茶々様は、滅んだとはいえ
浅井長政の血を引く、姫君です。

母は織田信長の妹・お市の方

誇り高き女性であったとしても
不思議ではありません。

秀吉の正室、北政所・寧々との関係
秀頼は秀吉の実子なのかなど
少ない資料をまとめながら
考察してみました!

 

Sponcored Link

 

淀殿茶々様の生涯を語るうえで、
お父上、浅井長政公と、
お母上、お市の方の事を
お伝えしなければと思います。

淀殿茶々様の父・浅井長政の系譜

浅井氏の始祖は
正親町三条公剛(公家の嵯峨家)の
落胤とする家系伝承を持っています。

本姓を藤原氏と称しますが、
近江の土着の豪族に
浅井氏があり、公家の子息が
婿入りしたものと伝わっています。

淀殿茶々様の父・浅井長政は、
北近江の戦国大名で、
妻・お市の方の兄・織田信長と
同盟を結び、浅井氏の
全盛期を築きます。

しかしその後、信長と決裂し
織田軍に敗れ自害し果てます。

死後の寛永9年(1632年)
徳川家光の外祖父に当たることから
贈従二位中納言を送られています。

 

 

淀殿茶々様の母・お市の方

永禄10年(1567年)お市の方21歳で
浅井長政と政略結婚をします。

類まれな美貌の持ち主で、
長政とお市の方は仲睦まじい
夫婦だったといいます。

長長男・万福丸、長女・茶々、
二女・初(常高院、京極高次正室)
三女・江(崇源院、徳川秀忠正室)
二男・万寿丸(母はお市ではないという説もある)
と、多くの子をなしています。

しかし、夫・浅井長政は、
兄・織田信長との盟約を破り、
両国は戦となりました。

この戦で、小谷城が落城、
炎に包まれたのでした。

お市の方は長政と共に
死を選ぼうとしましたが、
長政に子らの養育を
託されたために断念します。

浅井長政が、お市と5人の子供の
助命を嘆願しましたが、万福丸、
万寿丸二人の男子は許されず、
万福丸は、織田軍の手により
串刺しの刑に処されたといいます。

むごたらしいことですよね。
この処刑を行ったのは、
羽柴秀吉との説が流れています。
勿論、織田信長の命令でしょうけれど。

信長が本能寺の変で横死すると、
お市の方は柴田勝家と再婚します。

茶々達三姉妹を伴い
越前国北ノ庄城(現在の福井県福井市)に
入ります。

しかし、秀吉と勝家が対立し、
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いが
始まります。

お市の方と三姉妹はまたもや
戦禍に追われることになったのです!

賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れ
お市の方も共に自害します。
享年37歳。

三姉妹には、
「浅井と織田の血を絶やさぬように」
と言い含め、城から逃がしたのでした。

北ノ庄城は炎に包まれます。

お市の方の辞世の句です。

さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の
         わかれをさそふ ほととぎすかな

ただでさえ眠りにつく頃ですが、
まるで、私たちの長い眠り(死)を誘っているような
夏のほととぎすですね。

こんな意味でしょうか?
覚悟の上の穏やかな心境のように
私には感じますが、いかがですか?

 

asainagamasaoiti

上の肖像画は、淀殿茶々様が
秀吉との最初の子・鶴松を産んだ時に
高野山・持明院へ奉納したとされています。

血脈を残したことを
父母に伝えたかったのでしょうかね。

 

 

淀殿茶々様の生涯

淀殿茶々様の呼び方について。

淀殿茶々様の本名は、
浅井 茶々(あさい ちゃちゃ)

浅井 菊子(あさい きくこ)
朝廷から従五位下を賜ったときのもの。

「淀殿」、「淀君」という呼び方は
江戸時代以降の呼び名と言われています。

 

居住しているところにより、
呼ばれ方は変わったようで、
淀城では「淀の方」、「淀の者」
大阪城西の丸に入った時は
「西の丸殿」などと呼ばれていたと
史料に残っています。

最も一般的に使用されているのは
「淀殿」ですが、本記事では
淀殿茶々様と記載させていただきます。

淀殿茶々様、二度の落城を体験!

世の中に、お姫様は数あれど、
幼い頃から、二度も落城を体験した
お姫様が他にいるでしょうか?

思い当たらない・・・。

では、淀殿茶々様が生まれて、
母・お市の方や三姉妹で過ごした
北ノ庄城が落城するまでを語りましょう。

淀殿茶々様は、永禄12年(1569年)?頃
近江国小谷(現在の滋賀県長浜市)で
生れます。

天正元年(1573年)に
父・浅井長政が伯父・織田信長との
合戦に敗れ、小谷城が落城します。

母・お市の方と、二人の妹と共に
藤掛永勝に救出されます。

その後は織田信包の元、
安濃津城または清州城で保護されていたとも
尾張国守山城主で信長の叔父・織田信次に
預けられたともいわれています。

天正10年(1582年)織田信長の死後、
母・お市の方の再婚に伴い
妹たちと越前国北の庄城、
柴田勝家の元に移ります。

しかし、養父・柴田勝家が
秀吉との賤ヶ岳の戦いで破れると、
母・お市の方は柴田勝家と共に自害、
茶々達三姉妹は、秀吉に保護されることに
なるのです。

この後、茶々達三姉妹は安土城に
入りますが、後見人は織田信雄であった
という説と、織田有楽斎の庇護を受けたとも
いわれています。

どちらにしろ、血縁を頼っての
心もとない暮しだたのではないでしょうか。

長女の茶々様は、14歳くらいでしょうか。

三姉妹のその後

淀殿茶々様茶々は、母・お市の方の死後、
二人の妹にこう言ったと伝わっています。

「そなた達は名族近江浅井家の姫である。
 見苦しき振る舞いがあってはならぬ。」

なかなかでない言葉ですよね。
いかに浅井の血を誇りに思っていたかが
わかりますよね!

本来なら、秀吉なんて
足元にも及ばないほどのお姫様
なのですから!

ただ、茶々・初・江の三姉妹は
非常に仲が良かったといわれています。

淀殿茶々様が秀吉の側室となる以前に
妹たちは嫁いでいきます。

 

次女・初は京極高次の正室として。

三女・江(小督)は、母・お市の方の
姉の子・佐治与九郎一成に嫁ぎます。

ただ、江は秀吉の命令で佐治与九郎と
離縁させられています。
小牧長久手の戦いの後ですから、
天正12年(1584年)に離縁されています。
11歳くらいでしょうか。

その後、秀吉の姉の子で、自分の養子である
豊臣秀勝に嫁がせます。
しかし、この秀勝も文禄・慶長の役で
朝鮮に出兵し天正20年(1592年)
唐島で死亡しています。

この時、江には、秀勝との間に
完子という女子が居ましたが、
この子は淀殿茶々様が引き取って
養育します。

そして、完子は関白九条兼孝の子
中納言忠栄に嫁がせます。

そして最後は、徳川家康の嫡男・秀忠
嫁します。

実に3度も婚姻していますので、
波乱多き人生ですけれど、
どの夫とも仲が良かったといわれて
います。

そして、血脈が皇室にまで
残っているなんて、
淀殿茶々様は、凄腕です!

とにかく、淀殿茶々様については、
秀吉の子・鶴松を産むまでは
資料があまり残っていないのです。

ただ、資料が少ないからこそ、
小説などでは、想像で様々な
物語が展開されていて
面白いです!

 

淀殿茶々様、秀吉の測室になる。

淀の茶々様にとって、
豊臣秀吉という男は、
父・浅井長政、兄・万福丸達、
養父・柴田勝家、母・お市の方の命を
間接的にあるいは直接手を下した
仇であります。

 

しかし、同時に幼い二人の妹共々、
庇護してくれる唯一の人物でした。

妹たちを、父母のように
攻め滅ぼされることがないような
環境に嫁がせるには、
どうしたら良いか。

それは、淀殿茶々様にとって、
母・お市の方から託された
大きな使命であったと思います。

 

本当に資料が乏しく
いつから秀吉の側室になったのかさえ
不明です。

ただ、秀吉は妹二人は先に嫁がせ、
淀殿茶々様だけを手元に残しています。

戦国一の美女といわれた
お市の方の忘れ形見ですから、
やはり、面影が似ていたのでしょうね。

 

空白の数年間。後、秀吉の子を産む。

天正17年(1589年)
淀殿茶々様は、秀吉の子・鶴松
幼名・捨(すて)を産みます。

北ノ庄城が落城したのが、
天正11年(1583年)ですから、
21歳~22歳くらいですね。

秀吉にとってはも思ってもみない
慶事でした!

歓喜した秀吉は、
茶々様に山城国・淀城を与えます。

 

 

ここから、「淀」という呼び名が
付いたわけですが、
正式には、「淀の方」、「淀のお方様」と
呼ばれていたようです。

この鶴松が生まれた頃に、
秀吉は養子の秀勝に淀殿茶々様の
妹・江(小督)を嫁がせます。

妹を自分の養子に嫁がせることで、
鶴松との絆を深めたかったのでしょう。

ところが、鶴松は天正19年(1591年)に
僅か3歳で亡くなってしまいます。

喜びが大きかった分、落胆もひどく、
齢50も過ぎていたため、
秀吉は関白職を甥の秀次
譲ります。

これが後々、あんな残酷な結末に
なるとは、誰も思っていません・・・。

 

淀殿茶々様は、また懐妊します。

そして、文禄2年(1593年)に
拾(秀頼)を産みます。

立て続けに男子を産むなんて、
さすがですね!(この時代は!)

ところが、秀頼を授かってからの
秀吉は、もう我が子可愛さだけに
凝り固まった、老醜を見せます!

 

秀頼が生まれた翌年の文禄3年(1594年)、
秀次が関伯の座を追われ
謀反の疑いをかけられ
秀吉により切腹させられます。

さらに秀吉は、秀次の切腹だけでは
飽きたらず、妻妾、幼い若君・姫君、
侍女、乳母まで、39人を処刑しています。

 

 

秀吉の死、そして、大阪城へ。

慶長3年8月18日(1598年)62歳で
秀吉は亡くなります。

 

秀頼はまだ6歳。

 

ただただ、秀頼の行く末だけを
心配していた最期でした。

淀殿茶々様は、秀吉の遺言により
秀吉の死の翌年、慶長4年(1599年)
秀頼を伴い大阪城・西の丸に入ります。

 

徳川家康や五大老もこれに従いました。

 

がこの時北の政所・寧々様は、
大阪城を出て、落飾します。

 

 

関ヶ原の戦い勃発。その時淀殿茶々様は?

慶長5年(1600年)淀殿茶々様の元に
石田三成が会津討伐に出征している
徳川家康に対して挙兵を企てているという
情報が入ります。

 

これを受けて、家康と毛利輝元に
大至急大阪に戻り、謀反の動きを
抑え込むようにと、書状を送っています

しかしその後、大阪城に入った
毛利輝元は石田三成の西軍の総大将となり、
関ヶ原の戦いが勃発します。

この時石田三成は、
秀頼の墨付きや、秀頼の出陣
要請していますが、これを拒否しています。

関ヶ原の戦いは許すけれど、
秀頼とは関係ない、という姿勢を
貫いています。

結局、9月15日の関ヶ原の戦いで
徳川方の東軍が勝利します。

 

家康は、淀殿茶々様と秀頼は
西軍に加担していない、としながらも、
豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの
恩賞として勝手に分配します。

 

この辺は、淀殿茶々様が
狡く立ち回ろうとしたのでしょうか?

というより、淀殿茶々様は、二度の
落城を経験しています。
幼い秀頼を戦に巻き込みたくなかった
という気持ちが一番強かったのでは
ないでしょうか。

ここがやはり、お姫様育ちですかね。

傍に相談できるような、能力の高い
臣下がいたら、違っていたでしょうけれど。

家康との対立、大阪の陣勃発

関ヶ原で勝利した後の徳川家康は、
着々と豊臣家の滅亡を画策していきます。

そして、絡めとられるように、
淀殿茶々様は、この罠にはまっていきます。

慶長8年(1603年)家康は
征夷大将軍の位につきます。

そして、秀頼を内大臣に任じるよう
計らい、孫の千姫を輿入れさせます。

千姫は、淀殿茶々様の妹・江の
産んだ娘で、従姉妹同士の婚姻になります。

征夷大将軍となった家康は、
慶長10年(1605年)、秀忠に
将軍職を譲ります。

 

そして当時13歳の秀頼を二条城に
上洛させるよう、促します。

これには、淀殿茶々様も、
秀頼の行く末が心底危ういと感じた
ことでしょう。

「秀頼を殺して、自害する。」
断固拒否しています。

 

このような言動が残っているため、
ヒステリックな性格の女性という
イメージが定着しているのかも
しれませんね。

でも、淀殿茶々様が
何も用心することなく
秀頼を上洛させていたとしたら、
もしかして、秀頼はこの時に
毒殺されていたかもしれません。

加藤清正の毒殺説がいつまでも
伝説として語り継がれていますから・・・。
関連記事はコチラ
      ↓
加藤清正の生涯と熊本城の秘密!地震加藤といわれた所以や子孫まとめ

そして、慶長19年(1614年)に
またも家康は難癖をつけます。

方行寺大仏殿の梵鐘に
「国家安泰」とあることに対し、
「家康の名を「安」の文字で分断し、
 不吉。呪いを込めている。」と。

この時に使者に立った
片桐且元は家康に
和解策として、以下のように
伝えています。

大阪の国かえ、秀頼を人質として
江戸に送るか、あるいは
淀殿茶々様を江戸に送るか。

この事を聞いた淀殿茶々様は、
激怒します。

 

淀の茶々様にとって、
家康の権力は理解していても、
元は織田家に人質に来ていたもの。

血筋は、我が浅井家、織田家が格上。
その血を引く秀頼が
家康の足下に置かれるというのは
我慢ならなかったでしょう。

そして大阪の陣へと向かって行きます。

 

大阪の陣勃発。真田幸村活躍も大阪落城!

慶長19年(1614年)大坂冬の陣が勃発します。

現在、NHK大河ドラマ「真田丸」が
放送されていますが、真田信繁(幸村)の
真田丸での戦いぶりが楽しみですね!

で、真田信繁(幸村)の作った
「真田丸」は、単に砦のような、
まあ、極小さな出城というところでしょうか。

そこでの真田幸村の大活躍で、
徳川勢はコテンパンにやられます。
だから、決して冬の陣では
大坂敗戦とは言い難いのですが、
講和した後がイケなかったですね。

この時、講和の条件として、
淀殿茶々様は、家康に条件を出します。

自分は、江戸の人質に
赴いても良いということ。

ただし、

「但諸牢人可扶持間、知行可有加増」

http://www.sankei.com/west/news/150416/wst1504160005-n1.html

これは、大坂冬の陣の最中、慶長19年12月15日の
儒学者・林羅山が「大坂冬陣記」に記したもので、
淀殿茶々様が、講和の条件として
雇い入れた牢人衆に知行を与えるために
知行の加増を求めた、という意味の文言です。

林羅山は、徳川家康の近侍です。

これに激怒した家康は
12月16日に大阪城本丸に向けて
大砲をぶち込みます。

そして、講和。

 

徳川方は講和条件の大阪城外堀だけではなく、
二の丸の堀も埋め、難攻不落といわれた
大阪城は、ついに裸城になってしまいます。

そして、家康は淀殿茶々様を追いつめます。

 

秀頼を、大和か伊勢へ減移封するか、
大阪城内の牢人衆を一掃するか。

淀殿茶々様は、徹底抗戦を決めます。

 

 

大阪夏の陣の勃発。

というか、最初から家康は
秀頼母子を亡き者にし、
禍根を残さぬよう、豊臣家を
滅亡させたかったのでは?

慶長20年5月に始まった戦は
激戦の末、豊臣方が敗戦し、
大阪城落城、炎に包まれます。

淀殿茶々様にとって、
三度目の落城でした。
この時は、我が子を伴い、
炎の中で、一切の遺骸が残らぬよう
自害しています。

秀頼、享年23歳

淀殿茶々様、享年49歳ころ(生年が不詳のため)

この時に、大野修理、真田大介(幸村の長男)
も共に殉死しています。

 

淀殿茶々様の性格は高慢ちきだった?いえいえ!

歴史に、~たら、~ればは、禁句ですが、
やはり、加藤清正公が生きておられたらナ~とか、
石田三成があの時、戦をしなかったらな~
など、思いますね。

やはり、滅んだものに対する
哀惜の念が尽きませんね。

これまで、淀殿茶々様の生涯を
ご覧いただいた中で、
淀殿茶々様の性格が垣間見える
エピソードがありましたよね。

まず、二人の妹達に諭した台詞。

「そなた達は名族近江浅井家の姫である。
 見苦しき振る舞いがあってはならぬ。」

まだ十代の姫君の台詞とは思えませんよね。
誇り高き、浅井の姫君なのです!

そして、関ヶ原での、石田三成を
守ろうとしなかった姿勢。
これは、秀吉亡きあと、ひたすら
秀頼を守ろうという母性過多の表れと捉えます。

最後に、大坂冬の陣での講和条件に
自分が人質になっても良いと
思っていたこと。

されには、牢人衆が身が立つように
知行を増やしてほしいと、
家康に申し入れていること。

これらを合わせると、
淀殿茶々様の性格は、
確かに、お姫様育ちで、
世間知らずな一面もあったが、
必死で秀頼を守ろうとした
強き母であったということ。

大阪の陣では、加勢する大名も
無い中、奮戦してくれた牢人に対する
心遣いも出来た方であったこと。

ただ、ヒステリックで
我儘なお姫様ではなかったことは
おわかりいただけたでしょうか?

秀頼は誰の子か?石田三成の子であるはずがない!

あんなに多くの側室を抱えながら、
秀吉には子供が少ない為、
この問題は取り沙汰されることが多いです。

現代のように、DNA鑑定なんてあったら、
一挙に問題解決ですけど、
この時代では、憶測しかできないですね。

しかし、秀吉は若い頃
側室・南の方に石松丸(秀勝)という
息子を授かっています。

さらに南の方は、女子も産んだ
らしいのですが、夭折したとか、
死産だったとかいわれています。

さらに、北政所も一度は懐妊したが、
流産したとか、側室の京極滝子も
子を身ごもったという話があります。

なので、秀吉が子ができにくい
体質であったことは確かですが、
子供が全くできない体質でも
なかったようです。

さらに、秀頼は大柄で
「猿」と呼ばれていた秀吉とは
似ても似つかない面立ちだった
ようですから、
このような噂が飛び交ったようです。

ただし、石田三成が秀頼の実父ではないか、
という説は、否定的ですね!

なぜなら、関ヶ原の戦いで、
石田三成が敗戦すると、
淀殿茶々様は、知らん顔を決め込み、
徳川家康にご褒美を渡しているくらいですから。

秀頼の実父であれば、後の秀頼のため
もっと三成を生かす方向へ
力を尽くしたように思います。

もう一人、噂されているのは、
大野修理説です。

大野修理は、淀殿茶々様の
乳母だった、大蔵卿局の息子で、
大そうイケメンだったらしいです!

淀殿茶々様が始終傍に置いていたと
いいますから、可能性は否定できません。

しかし、わたしはやはり、
秀吉の実子と思いたいですね。

何度も言いますが、秀吉にとって、
淀殿茶々様は、特別な存在です。

憧れのお市の方の忘れ形見ですから!

元々主筋にあたる家柄の
姫を側室にして、我が子をなしたい
という秀吉の強い思い
あったのではないでしょうか?

憶測と希望ですね。

 

淀の茶々様と、北政所・寧々様との仲は?

秀吉が亡くなり、大阪城に
淀殿茶々様と秀吉が入ると同時に
北政所・寧々様は、大阪城を去ります。

それに、北政所・寧々様が
大切にしていた花を
淀殿茶々様が無碍な扱いをしたなどの
エピソードが語られていますが、
それは、史実ではないようです。

 

 

秀吉は、正妻・北政所に対しては、
豊臣家で確たる権威ある立場に
置いて、慈しんでいたようです。

奥向きの一切から、人質として
預かった諸大名の妻子の面倒まで、
取り仕切っていたのは、北政所です。

 

 

実子は流産したとか、できなかったとか
諸説ありますが、加藤清正や
福島正則など、秀吉子飼いの家臣は、
皆、北政所に養育されています。

ただ、淀殿茶々様の出身地である
近江出身の石田三成と、
これら北政所が養育した
加藤清正らが不仲であったため、
淀殿茶々様と、北政所まで
不仲であったと噂されたのでしょう。

なぜなら、関ヶ原の戦いの折、
北政所・寧々様は、家康側についた
京極高次・初(茶々の妹)の元へ、
石田方につくよう使者を送っています。

さらには、打倒家康を掲げた宇喜多秀家に
戦勝祈願の品を贈っています。

関ヶ原の戦いの後も、
北政所・寧々様は、
淀殿茶々様と秀頼を家康から
庇う行動をとっています。

どこまでも、豊臣秀吉の正室として
淀殿茶々様と秀頼を
守ろうとする姿勢に終始しています。

これらのことから、決して、
淀殿茶々様と北政所は
不仲ではなかったと思われます。

ただ、北政所ほど
淀殿茶々様には、先を観る目が
無かったというか、
我が子の為に、目が曇ることも
あったのでしょう。

 

 

大阪が落城すると、北政所・寧々様は
京都に高台寺を建立し、
秀吉の菩提を弔ったことは
有名ですね。

ちなみに、家康からは
大名並みの化粧量(1万石程度)が
渡されていたようです。

 

 

まとめ

淀殿茶々様とは?その生涯。

淀殿茶々様は、父を浅井長政、
母をお市の方に持つ生粋の
お姫様として生まれます。

父・浅井長政が伯父・織田信長に
破れ、小谷城が落城。
母・お市の方と二人の妹共に
信長の庇護を受けます。

信長本能寺の変で倒れた後、
母、妹共に養父・柴田勝家の元
賤ヶ岳城へ入ります。

養父・柴田勝家が、羽柴秀吉に
破れ、賤ヶ岳城が落城します。
母・お市の方は、柴田勝家に殉じ
自害。

淀殿茶々様は、二人の妹とともに
秀吉の庇護を受けるようになります。

妹、初と江は先に嫁ぎ、
淀殿茶々様だけが、秀吉の元に
残されます。

淀殿茶々様は、秀吉の側室になり
鶴松、秀頼の二人の男子を産みます。

秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが
勃発し、石田三成の西軍が敗れます。

いよいよ時代は徳川の武家制度完成に
向かって行きます。

家康の魔の手が、淀殿茶々様・秀頼に
じわじわと迫っていきます。

関ヶ原から14年後、大阪冬に陣が
勃発します。

淀殿茶々様は講和の為に
自らが江戸に人質に赴くことを
受諾するも、条件が合わず家康が
これを拒否。

冬の陣の後、家康は講和条件を守らず、
大阪城を裸城にしてしまいます。

大阪夏の陣勃発。
大阪方は、奮戦するも破れ、
大阪落城。

淀殿茶々様は、秀頼と共に自害し
果てますが、遺骸は発見されていません。

淀殿茶々様の性格は?

淀殿悪女伝説や、高慢ちきな性格
といわれてきましたが、
そうとも言えないのでは?

ただ、浅井の血を守るため、
必死だっただけでは?

大坂冬の陣では、牢人衆にも
気遣っている形跡が・・・。

 

 

秀頼の実の父親は?

石田三成説は、大いに怪しい。
けど、大野修理説は否定が難しい。
個人的には、秀吉の実子と思います。

 

北政所・寧々様と仲が悪かった?

いえいえ、決してそのような事実は
ないようです。

豊臣秀吉の正室と、実子を産んだ
お腹様・淀殿茶々様は、
別の役割があったと思われます。

 

 

では、最後までお読みいただきありがとうございました。

Sponsored Link

Sponsored Link

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ