加藤清正の生涯と熊本城の秘密!地震加藤といわれた所以や子孫まとめ。

加藤清正(かとうきよまさ)は、
肥後熊本初代藩主で、
熊本市民から現在でも
「清正公さま」(せいしょこさま)と呼ばれ
敬愛されています。

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加藤清正公の生涯を追いながら、
没後400年を越えても尚、
市民から愛される所以を
追ってみました。

 

そして、2016年4月14日、16日に
熊本を襲った大震災により、
熊本城も甚大な被害を受けました。

日本三大名城の一つに数えられる
熊本城には加藤清正が作った
「秘密の部屋」が存在する
ということです。

さらに清正公は「慶長伏見大地震」
の際の逸話により、「地震加藤」
綽名されていたそうですが、
これは真実なのでしょうか?

その他、子孫や清正公ゆかりの井戸
調べて、まとめました!

 

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加藤清正公の生涯

生誕から秀吉の小姓となるまで

加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日
刀鍛冶の加藤清忠の次男として、
尾張国愛知郡中村に生まれます。

母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。

伊都は、豊臣秀吉の生母である
大政所・仲の従姉妹(あるいは遠縁)
といわれています。

大政所・仲の関連記事
     ↓
大政所・仲と朝日姫(旭)の生涯!徳川家での番人は鬼作左(おにさくざ)

幼名を夜叉丸、後に改名し
虎之介といいます。

 

 

どちらも強そうな名前ですよね!
幼い頃から体格がよく、
武芸に秀でていたといわれています。

 

母・伊都は、教育熱心で
虎之介が幼い時分から、
妙延寺に通わせ、勉学させたといいます。

 

その後、清正3歳の時に
父・清忠が亡くなったために、
天正元年(1573年)10歳頃に
近江長浜城主となった秀吉に
小姓として仕えます。

 

 

秀吉との縁

淀殿茶々様を側室にするまでは
子供に恵まれなかった秀吉は、
加藤清正の事を、「虎(とら)」と呼び、
生涯我が子のように
可愛がったといわれています。

 

加藤清正もまた、秀吉の傍で
あまたの合戦で武功を挙げるなど
忠誠心を尽くしています。

 

 

加藤清正の数々の武功

天正8年9月19日(1580年10月27日)に
秀吉から播磨国神東郡内に
120石を与える知行宛行状(加藤文書)が
残っています。

清正18歳の頃ですから、
秀吉が烏帽子親となり
清正が元服したのは、
これ以前と思われます。

 

正室には、近江の守護大名
佐々木氏の一族で名門の
山崎片家の娘を娶っています。
(後に病死)

 

天正10年4月(1582年)秀吉の
中国攻めにおいて、
加藤清正は冠山城に一番乗り
果たしています。

 

同じく天正10年6月本能寺の変では
秀吉に従い、加藤清正は
山崎の合戦にも参加しています。

翌、天正11年(1583年)柴田勝家との
戦い・賤ヶ岳の戦いでは、
敵将・山路正国を打ち破り、
「賤ヶ岳の七本槍」の一人
数えられています。

この功により、加藤清正は
3000石の所領を与えられています。

 

天正13年(1587年)秀吉が関白に就任
加藤清正は、従五位下・主計守に叙任されます。

 

天正14年(1586年)秀吉の九州平定に従い
上使として戦後処理や財務管理
当たっています。

また、和泉国の代官を務めていた頃、
堺の商人との関係も深めた
いわれています。

これらの知識や人脈が
後の肥後国運営に大きく
役だったといえます。

この後、肥後国主であった
佐々成政の失政により、
加藤清正は肥後半国を与えられます。

 

当時の肥後国は国人一揆が発生するなど
長引く戦乱で不安定な情勢でした。

秀吉は、九州平定の際に上使として
赴いたことがある加藤清正に
肥後半国を託したのです。

これにより、加藤清正は
一気に19万5000石の大名になり、
隈本を熊本とし、熊本城を居城とします。

 

文禄・慶長の役で朝鮮へ出兵。小西行長との確執と石田三成の讒言!

生涯秀吉に忠義を尽くした
加藤清正が、秀吉没後に勃発した
関ヶ原の戦いで、東軍・家康側につく
遠因となったといえる出来事が、
文禄・慶長の役での小西行長との確執です。

とにかく、ことごとくぶつかり合っています。

文禄元年(1592年)加藤清正は
領国の家老2名に36か条にも及ぶ
出兵の準備に関する指示を出しています。

秀吉と同じく、譜代の家臣がいないため、
大所帯になればなるほど、家の統制を
取るのは、大変だったのでしょう。

 

文禄の役での加藤清正は
二番隊主将でした。

小西行長は一番隊で清正とは
別路を取ります。

 

4月17日の釜山上陸し、
首都漢城攻略後は、一番隊や
黒田長政の三番隊と共に北上し
臨津港の戦いで朝鮮軍を破ります。

 

その後、黄海道金郊駅からは、
清正率いる二番隊は、
行長の一番隊、黒田長政の三番隊と別れ、
東北方向へ向かい、朝鮮の王子2人を
捕虜にするなどの戦功をあげます。

ところが、一番隊、三番隊は、
明軍の援軍を受けた朝鮮軍の
反撃を受け苦戦し、進撃は停止して
しまいます。

この明暗分ける報告を受けた
日本本国では、
清正が虚偽の戦報告をしているのでは
無いかと、疑念をもつように
なったのです。

必死で戦をし、事実戦功を
挙げている加藤清正にとっては、
片腹痛いってものですよね!

加藤清正は、男として、武将として、
一番隊の小西行長と、
報告を仲立ちする石田三成
許せなかったでしょうね。

 

ここからですよ、確執が深まるのは。

 

この後、明・朝鮮と和睦交渉に入りますが
秀吉の示す講和条件は到底相手側に
受け入れられるものではありませんでした。

小西行長は、秀吉の命令を無視して
和睦交渉に入ろうとし、清正と対立します。

これは、秀吉に忠義一徹の清正にとっては
許し難い事だったでしょう。

一方の小西行長と石田三成は、
清正が邪魔で仕方がない。

小西行長から報告を受けた
石田三成は、、秀吉にこう伝えます。

清正が独断専行した上に、
勝手に豊臣姓を名乗っている。と・・・。

これを聞いた秀吉は激怒し、
清正は謹慎処分となります。

邪魔だったのですね、清正が。

ところがこの後、慶長伏見大地震が起こり
加藤清正は真っ先に秀吉が居る
伏見城に駆け付け、弁明をしたため
許されたといいます。

この逸話から、「地震加藤」
呼ばれるようになったのです。

この逸話の真偽については、後に述べますね!

でも、加藤清正と小西行長との
確執は慶長の役でも続くのです。
もっとひどい事をしますよ、
小西行長は。

 

 

慶長2年(1597年)から始まった
慶長の役では、
小西行長は左軍の先鋒。
加藤清正は右軍の先鋒でした。

小西行長は明・朝鮮軍側に
清正の上陸地点をわざわざ知らせます。

明・朝鮮軍に清正を殺させようと
目論んだのです!

しかし、敵将・李舜臣はこれを信用せず、
清正を攻撃することはありませんでした。

小西行長、頭悪すぎ!
誰が考えたってわかりますよね!

隣国に攻め入ろうかっていう時に、
はなから仲間割れしているなんて、
どんな智将だって、想像だにすらしないでしょう!

 

 

 

加藤清正は、この後も武功を挙げ、
朝鮮の人々からは、「鬼」
怖れられたようです。

 

慶長3年、秀吉の死を持って、
清正らは、日本に帰国することになります。

しかし、小西行長、石田三成らとは
埋めようの無い溝ができてしまいました。

 

本当に、朝鮮出兵は朝鮮の人々にとっても
豊臣家にとっても、何と無益で
残念な戦だったことか!

 

慶長伏見大地震、なぜ地震加藤と呼ばれた?

慶長伏見大地震(けいちょうふしみおおじしん)
とは、文禄5年7月13日(1596年9月5日)
現在の京都・伏見付近を襲った大地震です。

 

有馬・高槻断層帯、及び六甲・淡路断層帯
震源断層として発生し、
M(マグニチュード)7.25~7.75程度と
推定されています。

この大地震の時、秀吉は
出来上がったばかりの伏見城に
居たといわれています。

城内で、600人が圧死したといわれて
いますから、被害甚大です!

こんな、ビックリ仰天・転変同地のまっさかりに、
取るものもとりあえずという
かっこうで、子飼いの家臣・加藤清正が
駆けつけてくれたら、どうでしょう!

石田三成からの讒言で、謹慎をさせられていた
清正が、恨むことなく、窮地を救ってくれた!

「愛いやつ(ういやつ)、虎よ~~」

となって、謹慎を解かれた、というお話です。

 

で、落語などでも「地震加藤」として
庶民に親しまれているのですが、
本当かよ~~?

あるあるか、ないないか。

個人的にはあるあるだけど、
少し誇張しすぎで、芝居じみているって
感じです。

 

実は、この地震の時、清正は
伏見の屋敷が完成していなかったため、
大阪にいたという書状が残っています。

したがって、清正が秀吉の元に
駆けつけたことは間違いないとして、
「取るものもとりあえず、真っ先に」
ではないようですし、
ましてや、秀吉をおんぶして
外に出たなんてことは、無いようです。

やはり、面白く脚本してこそ、
後世に残りますからね。

結局、文禄・慶長の朝鮮出兵は
豊臣家の重臣たちの確執を招き
豊臣の土台を揺さぶる火種を作ります。

そんな時に、やはり
大地も揺れるものなのでしょうね。

清正公没後405年目の本年、
清正公が愛してやまなかった
熊本の大地が揺れたことも
何か所以というか、天の啓示が
あるのでしょうか?

 

加藤清正が、「おせいしょこさま」と言われ今も慕われる理由

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなり、
清正は漸く、朝鮮から肥後・熊本に
戻ることができます。

これから、「おせいしょこさま」
現在も尚、市民から敬愛される礎となった
領地運営に入ります。

まず、治水事業

白川坪井川の付替
緑川の鵜の瀬堰
球磨川の遥拝堰
菊池川の改修

等々。

これらにより、広大な一大穀倉地帯が
生まれたといいます。

さらに、熊本平野、八代平野、玉名平野への
干拓と堤防の整備。

これにより、海岸側にも、広大な
畑作地帯が生まれたといいます。

しかも、これらの労務に携わる者は、
徴収された農民たちでしたが、
事業は農閑期に行い、
賃金を支払ったといいますから、
この時代になんと領地運営が上手い
お殿様か!

市民が今も慕うわけです。

 

清正が領地を運営するまでは、
その地を見た宣教師ですら、
「これほど貧しい地を見たことがない。」
と記すほど、貧しい国だったようです。

せっかく耕した田を、洪水で
持っていかれたら、それでおしまいですから。

 

治水事業の成功は、地元住民にとっては
神の恩恵のように捉えたでしょうね。

 

で、地元の方々は、
武運長久や、無病息災の願をかけて
「清正公」(せいしょうこう)様を
崇めたわけです。

もちろん、清正が熱心な日蓮宗の
信者だったということもあるのでしょうが。

 

しかし、現実には朝鮮出兵での軍費や、
熊本城築城の経費など、租税も重く、
庶民の暮しはなかなか楽ではなかったようです。

それでも、やはり清正公は
今なお熊本市民の精神的な
支柱になっていますね!

 

関ヶ原の戦い!加藤清正は苦渋の選択!

秀吉の死後、清正は徳川家康の養女を
継室に娶ります。

 

慶長4年(1599年)前田利家が死去すると、
福島正則や浅野幸長らと
石田三成暗殺事件を起こしますが
失敗します。

着々と関ヶ原の戦いに向けて
幕が開いて行きます。

天下分け目の関ケ原の戦い。
この時、加藤清正は領国・熊本にいました。

実はこの時、清正は家康により
謹慎処分にされて国元に居たのです。

 

島津氏の重臣・伊集院氏が反乱を
起こした「庄内の乱」で、
伊集院氏を支持していたため、
家康から、背信行為と取られたためです。

よく誤解される人ですね、清正公は。

そのため、関ヶ原の戦いの時には
国元に居たのですが、
西軍・毛利輝元からの説得工作
あったようです。

しかし、清正は
わざと無理な条件を提示して、
西軍には与しなかったようです。

 

家康もまた、もし東軍に加わっても
秀吉の子である秀頼に対し
誰よりも忠義心の篤い清正が
急に西軍につく可能性もありますから、
大人しく国元に居て貰った方が
安心だったのでしょう。

 

もし、関ヶ原の戦いに、清正が
西軍として出陣していたら?

もしその時、豊臣秀頼が
西軍の大将として打って出ていたら?

想像すると、胸が高鳴りますね~~!

歴史は完璧に変わっていたでしょうね!

 

 

清正の死因は毒殺か!

加藤清正の死因については
病死(いくつかの病)、毒殺
諸説あります。

 

なぜなら、急に発病しているし、
亡くなったのが、50歳と
まだ若かったからです。

清正は、慶長16年(1610年)3月
家康と秀頼の二条城での会見を
取り持ちます。

そして、秀頼の豊国神社参詣に随行し
鳥羽まで見送っています。

 

徳川・豊臣両家の和解に
尽力したかったのでしょう。

しかし、清正はこの会見からの
帰国途中、船内で発病します。

そして熊本に帰国後の
6月24日に亡くなっています。

 

急に「口がかなわなくなった」と
記されており、同じ病気で
浅野幸長も急死しているため、
徳川方による、暗殺説
根強く残っています。

毒饅頭説や、二条城での料理に
毒を少しずつ盛っていただとか・・・。

その他には、梅毒ではないかとか、
ハンセン病ではないかなどと、
諸説あります。

 

加藤清正の子孫。血脈は残った!

加藤清正の死後、
家督は三男・忠広が継ぎますが、
寛永9年(1632年)肥後一国を没収・
改易され、出羽庄内の酒井忠勝に
お預けとなります。

理由は諸説あるようです。

忠広はその地で病死します。
享年32歳でした。

忠広の子・光正も飛騨高山で
早世したため、これにて
加藤家は断絶します。

 

しかし、加藤家の家系は
山形県酒田市大字新堀など
続いているといいます。

 

さらに、加藤清正の長女・あま姫(謡林院)は→ここ、間違っています!
紀州徳川家・徳川頼宜に嫁ぎ、
光貞を設けます。

この光貞の子が、
八代将軍・徳川吉宗です。→これ、間違っていました!!

 

なので、加藤清正の血脈は
徳川の中で脈々と続いて行くのです。続きませんでした!!

 

訂正してお詫び申し上げます!
訂正記事はコチラです!

八代将軍徳川吉宗は、加藤清正の血脈では
ありませんでした!
大変失礼いたしました!
間違いを訂正し、正しいと思われる記事を
記載いたします。

加藤清正の家系図を拝見すると、
加藤清正の長女・あま姫
徳川頼宜に嫁したことになっていますが、
他の文献では、次女・あま姫
なっていたり、五女・八十姫になっていたりと
真偽のほどがつかめませんでした。

で、瑤林院で調べてみました。

瑤林院は加藤清正の第5子、次女として
肥後国で生まれています。

母は水野忠重の女で、
徳川家康の養女・清浄院です。

元和元年(1617年)17歳で
徳川頼宜に正室として
輿入れしています。

元和5年(1619年)に夫・頼宜が
紀州藩主となり、紀州に入ります。

この八十姫は、実子に恵まれなかったため、
頼宜の子・光貞は加藤清正の血脈ではありません!

と同時に、その子の徳川吉宗も
加藤清正の血脈ではないのです。

大変な間違いをしでかしてしまいました!

注:清正の子・瑤林院の実名については、
「あま」説と、「八十(やそ)」説が
あって、そのためこんがらがったのですが、
最近の研究で、瑤林院の姉、本淨院の名が
「あま」であることがわかり、
「あま」説が消え、「八十」説になっているようです。

 

で、加藤清正の子孫はいったいどうなったんだ?
オイオイ、しっかり書けよ~~!
って声にお答えして、調べなおしました!

 

血加藤家の家督を継いだ忠広には、
男子2人がありましたが、お家が改易に
なったのち、配流先で亡くなっています。

どちらも、病死か自害か明確にはされていません。

したがって、ここで、断絶です。

 

ただ、が、しかし!!
忠広は配流先で男女2人の
子供をもうけたようです。

少し安心した!

この血脈が残っているらしいのですが、
公にされていません。

 

なんでも、男子は加藤三秋を名乗り、
女子は加藤与治左衛門家を興したと
されています。

 

もっと詳しく調べると、ひょっとしたら
わかるかもしれませんが、
個人情報に抵触する可能性が
あるかもですから、
このくらいでご勘弁ください。

 

では、訂正がやたらと長くなりました!
ゴメンナサイ!

 

 

 

加藤清正がつくった熊本城、その秘密とは?

本年4月14日、16日の
大地震にも倒壊を免れた熊本城。

 

櫓が倒壊し、瓦が落ち、天守の鯱も
宙づり状態ではありますが、
堅固な城であることは間違いないです。

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揺れたら瓦が落ちて、
建物倒壊を防ぐ構造に
なっていたそうですから、清正公流石!

この城、とにかく本丸までの道のりは
迷路のようになっており険しく、
巨大な宇土櫓(うどやぐら)には、
狭間と呼ばれる鉄砲を撃つ穴が作られ
難攻不落といわれています。

熊本市内の道路も、まっすぐではないですよね。
行かれると感じると思いますが、
お城までは、直線で行けないように
なっています。

これは、攻め込まれたときの防衛策でしょう。

更に熊本城内の本丸御殿には、
「昭君の間」(しょうくんのま)
という格別に豪華絢爛な秘密の
大広間があるといいます。

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折り上げ格天上を用い、漆塗り。
畳は一段高くしつらえられ、
まるで、将軍(しょうぐん)を
お迎えするようなきらびやかさ・・・。

何故にこのような豪勢なお部屋を
作ったのでしょうね?

一説には、徳川から攻められ、
破れた豊臣秀頼を匿うため
部屋であったという説があります。

その為に、徳川の大軍が攻めかかっても
すぐには落ちないような堅固な城を
築いたというのです。

 

ありそうな説ですね~~。

泣けて来ますね~~。

でも、清正の血筋は徳川家で残り、
豊臣家の血筋は途絶えてしまいます。

 

 

加藤清正公と井戸?パワースポットなのか!

加藤清正公は本当に逸話の多い方で、
虎退治だとか、朝鮮の役で持ち帰った
石を掘りぬいて井戸作っただとか。

その他もろもろ、あります。

中でも都市伝説化しているものがあります。

東京都渋谷区代々木神園町1-1
明治神宮内にある、
清正井=清正の井戸(きよまさのいど)です。

もともとこの地には、加藤清正の
江戸別邸があり、
一年中清水が絶えることなく
湧でているため、
これは、築城の名手、土木の神様
清正公の手によるものだろうと
推測されているのです。

ただ、昭和の初期に一度この井戸が
干上がったことから、
本格的に調査が始まったようです。

調査の結果、普通の井戸は
地面に対しまっすぐ真下に掘りますが、
清正井は横に掘り進める
横井戸だそうです。

 

ここがパワースポットといわれる所以は、
この清正井が富士山と皇居を結ぶ
「龍脈」にあるということで、
龍脈から気が地表に吹き出す
龍穴にあたるからだそうです。

 

さらにタレントの島田周平さんが
この井戸に通っていたら、
仕事が沢山舞い込んだと言い、
開運スポットとして紹介したところ、
爆発的な人気を博したようです。

 

晴れた日の土日なんて、
1~2時間待ちなんて、当たり前だそうですよ!

恐るべし、清正井!

まとめ

まとめられないくらい長くなってしまいました!

でも、まだまだ書ききれていないので
それは別記事にします。

加藤清正は、幼い頃に父を亡くし、
秀吉が長浜城主になった時から
小姓として仕えます。

秀吉に我がこのように可愛がられ、
清正もまた終生忠義心を失いませんでした。

 

秀吉の傍で数々の武功を挙げ
従五位下・主計守に叙任されます。

 

文禄・慶長の役で朝鮮に出兵し、
その時から、小西行長、石田三成と
不仲になります。

慶長伏見大地震以降、
「地震加藤」と呼ばれます。

 

秀吉の死後、肥後熊本で善政を敷き
市民から今も尚「せいしょこさま」
敬愛される礎を築く。

関ヶ原では東軍につき、
肥後一国を治めるようになる。

 

加藤家は断絶したが、
血脈は残っています。
ただ、詳細は記事にできません、
ゴメンナサイ。

清正が築いた熊本城は難攻不落で、
「昭君の間」という絢爛豪華な
秘密の一室があります。

清正が作ったいわれる井戸は、
パワースポットとして都市伝説化しています。

ドラマにもってこいの人物像ですよね~~!

是非、近い将来に大河ドラマとして
描いていただきたいものだと思います。

 

被災された皆様には、
心よりお見舞い申し上げます。

一日も早く余震が治まりますよう、
心よりお祈り申し上げます。

本日も最後までご覧いただき、
有難うございました。

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2 Responses to “加藤清正の生涯と熊本城の秘密!地震加藤といわれた所以や子孫まとめ。”

    • みるる より:

      こんにちは!「また」ということは、再度のご訪問ですね!本当にありがとうございます。
      お気づきの事がございましたら、いつでもコメントをお寄せください。
      拙い記事をお読みいただき、有難うございました。

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