石川数正はなぜ突然、徳川家を出奔したのか?子孫は真田丸で幸村と共に戦った!

sanadamarumatumotojyou

http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/special1_index-id_83-htm

 

 

石川数正と徳川家康。

 

家康が、まだ竹千代と呼ばれ、

人質として今川家に預けられていた幼い頃から、

ともに苦楽を味わってきた主従です。

 

ある意味、兄弟のような、

あるいはそれ以上に強い絆で

結ばれていたと言っても

過言ではありません。

 

 

その石川数正が、徳川家康が

真田昌幸を攻めた上田合戦の際に

突如として徳川家をを出奔

豊臣秀吉の庇護を受けることになったのです。

 

 

つまり、石川数正の裏切りです。

ではなぜ、石川数正は

竹馬の友ともいえる家康を

裏切ったのでしょうか?

実は真相は未だに明らかにされておらず

そのため、諸説(かなり色々!)あるのです。

 

本日はその様々に取りざたされている

石川数正、徳川家出奔の真相に近づき、

私見をもろもろ述べたいと思います。

そして、教正の死後、子孫ははどうなったのでしょう?

 

Sponcored Link

 

石川数正の生涯

石川数正は天文2年(1533年)

三河国で生まれています。

 

父は石川康正(康政)、

母は松平重吉の娘で

幼名は助四郎といいます。

 

 

徳川家康が駿河の今川義元の

人質として送られたときから、

近侍として家康に仕えています。

 

 

 

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで

今川義元が織田信長に討たれて亡くなると

数正は今川氏真と交渉し

今川家に残っていた家康の正室・築山殿と

嫡男・信康を取り戻します。

 

 

文禄4年(1561年)家康が

織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際は

先鋒を務めています。

 

 

文禄5年(1562年)の清州同盟では、

織田信長との交渉を一手に引き受け

貢献しています。

 

 

ところが、永禄6年(1563年)に

三河一向一揆が起こります。

 

この時、数正の父・康正は

家康を裏切りますが、

数正はわざわざ浄土宗に改宗してまで

家康に付き従っています。

 

 

このため、石川宗家は

叔父の石川家成が継ぐことになりますが、

数正は家老に取り立てられます。

 

 

さらに、家康の嫡男・信康が元服後は

後見人になっています。

 

その後、数正は

家康と共に転戦に次ぐ転戦!

 

元亀元年(1570年)姉川の戦い(対浅井長政)、

元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い(対武田信玄)

天正3年(1575年)長篠の戦い(対武田勝頼)

これらの合戦で数々の武功を挙げます。

 

 

ところが、天正7年(1579年)に

家康の嫡男・信康が織田信長から

謀反の疑いをかけられ切腹してしまいます。

後見人であった数正は、助命に

奔走していたともいわれています。

 

 

そのわずか3年後の天正10年(1582年)に

本能寺で織田信長が横死します。

 

この時、家康が決死の伊賀越えをして

九死に一生を得た時にも、

勿論、数正は共に居ました。

 

もしかしたら、顔に付いたご飯粒を

取りあいこしてたかも知れません。

 

 

そして石川数正は、信長後に台頭してきた

羽柴秀吉と徳川家との交渉

担当することになります。

 

 

こうして、家康の命令で

対豊臣家における外交を

引き受けていた数正ですが、

天正13年(1585年)11月13日に

突如、徳川家を出奔します。

 

 

徳川家の重臣中の重臣、

軍事機密等の重要事項を知り尽くした

家老・教正の突然の出奔劇で、

徳川家に激震が走ったことは間違いありません。

 

 

寝耳に水だった(かどうかは謎)家康は

同年8月の第1次上田合戦で大敗した真田昌幸

再度攻める予定でしたが、これを早々に諦め

大幅な軍事改革を進めます。

 

 

豊臣家臣となった数正は、

河内国内に8万石を与えられます。

天正18年(1590年)小田原征伐の後、

信濃・松本10万石に加増移封され、

松本城の築城と城下町の整備などに

尽力しています。

 

 

 

死去したのは、文禄2年(1593年)とも

文禄元年(1592年)ともいわれています。

朝鮮の役に出陣していた際に

病没したといわれています。

 

 

享年は61歳で、文禄元年死去であれば、

60歳です。

 

 

墓所は長野県松本市の正行寺に

あります。

愛知県美合町の本宗寺にも

墓所がありますが、これは供養塔の

ようなものです。

やはり、三河では「裏切り者」として

みられているようです。

突如、主家を裏切り謎の出奔!真相は?

諸説あります。

Ⅰ・秀吉篭絡説

Ⅱ・家康の嫡男・信康の切腹関連

Ⅲ・家康の命を受け間者の役割を担って

  豊臣家の家臣となった。

 

 

Ⅰ.秀吉篭絡説

豊臣秀吉は、稀代の‟ひとたらし”

といわれた男です。

やはり人を惹きつけてやまない

魅力が在ったといわれています。

 

 

家康にはない、人としての魅力に

惹きつけられて、秀吉の家臣となった?

 

さらに、膨大な恩賞をちらつかせて

数正を篭絡したのだとも

いわれています。

 

が、疑問ですね。

 

なぜなら、三河一向一揆の際に

自分の親とも決別して、

家康に尽くすほどの数正が、

今さら、秀吉に男惚れしたからって、

家康を裏切ったりするでしょうか?

 

 

ましてや、金品では動かないでしょう!!

 

 

ただし、小牧・長久手の戦いで、

秀吉との和睦交渉を行ったのは

石川数正です。

 

 

小牧・長久手の戦いでは、

徳川家は決して劣勢だったわけでは

ありませんので、この和睦が、

徳川家中に快く受け入れられなかったとしたら?

 

 

何といっても、三河武士です。

良く言えば、忠義一徹。

悪く言えば、融通が利かない。

 

 

実際に豊臣秀吉の人となりを

間近に見た数正と

他の重臣たちとの間に

感情のの齟齬ができ、

小牧・長久手の和睦交渉から

1年を経て、ついに数正は

徳川家に居られなくなってしまった。

 

 

これであれば、納得できますね!

で、Ⅰの説は半々ですね。

 

決して欲に目が眩んだわけではないけれど、

去らねばならない心理状態に

追い込まれていたのではないでしょうか?

 

 

Ⅱ.の松平信康(家康の嫡男)切腹関連

これはあるかもしれませんね。

徳川家はこの時代、石川数正を中心とした

松平信康を推す岡崎衆(信康派)と

酒井忠次らを中心とした浜松衆(家康派)に

分かれていました。

しかし、信康の切腹により

岡崎衆の力が弱まったため

徳川家に居辛くなってしまったと

いわれています。

 

 

さらに、信康の切腹以来、

家康とも不仲になっていたという説もあります。

これは、少々あるある感がします。

 

 

なぜなら、石川数正は誇り高き武将であったと

推察するからです。

 

 

徳川譜代の三河武士で、

幼少の頃から家康を補佐し、

ついには親を見離してでも

家康の為に生きてきた誇り。

 

そして、嫡男の後見人であるという

誇り。

 

もし、この誇りを傷つけられ続けたとすれば、

俄然、この説はあるアルになりますね~~。

って勝手な私見です。

 

誇り高き人間が、その生きる上で

最も大切にしてきた誇りを傷つけられたとしたら?

家康は、幼い時から苦労続きの

人生を味わって来ましたから、

簡単に人を傷つけたりはしないと思います。

 

しかし、数正が

他の重臣たちに嫉妬されて、

陥れられたとしたら?

大好きな殿を裏切りたくはないけれど、

派閥争いに敗れ、どこかポッカリ

心の隙ができたのかもしれません。

 

 

Ⅲ.家康の命令で豊臣家に下った。

これもありそうですが、少々疑問です。

もし、数正が家康の命令で

徳川家を出奔したのであれば、

数正の死後、家督を継いだ康長が、

改易されるとは考えにくいからです。

 

 

1613年10月19日に

石川康長(石川数正の長男)は

大久保長安事件に連座して、改易され

豊後佐伯に流罪となっています。

 

 

その後、弟の石川康勝、石川康次も

豊後佐伯に流罪となっています。

 

 

この一件には、本多正信・正純親子

拘わっているようですから、

やはり、数正の謎の出奔劇にも

徳川家中の派閥争いが絡んでいるような

気がします!

 

 

さらに、もし家康の企みで

数正が出奔したのであれば、

あれほど大慌てで軍制改革

行ったりはしないでしょう。

 

 

深謀遠慮、隠忍自重、

石橋を叩いて叩き割っても渡らないほど

慎重な家康が、そんな間抜けなことは

しないでしょう!

 

なので、Ⅲは却下です。

 

結局、Ⅰの説とⅡの説、双方に

その時々の人間関係が複雑に絡まって、

追い詰められてしまった。

そしてとうとう、

徳川家の重臣中の重臣、石川数正は、

突如一族郎党を引き連れ

徳川家を出奔した。

ということでしょう。

 

 

子孫は真田丸で戦った!夏の陣で幸村と共に散る!

石川数正の長男・康長と次男・康勝は

父と共に徳川家康に仕えますが、

家康の次男・結城秀康が豊臣家に

人質として赴く際に、同行しています。

 

 

数正の死後、信濃松本藩の10万石の遺領は

長男・康長が8万石、次男・康勝は1万5千石、

三男・康次に5千石と分け合っています。

 

 

この後、慶長5年(1600年)の

関ヶ原の戦いでは、兄弟で東軍に与しています。

 

 

ところが、前述のように

大久保長安事件に連座し、

改易となり、数正の3人の子供は

豊後佐伯に流罪となり、

毛利高政に預けられます。

 

 

 

石川数正の長男・康長の墓所は

配流先の豊後佐伯(大分県)にありますが

一説には、大阪の陣で亡くなったとも

いわれています。

 

 

次男の康勝は、慶長19年(1614年)に

大阪冬の陣が始まると、豊臣方に与します。

 

 

真田丸での戦いで、配下が火薬を誤爆させ

康勝自身も負傷しています。

 

なので、冬の陣の時から

真田信繁(幸村)と共に

戦っていたことが史実に残っています。

 

また、大阪夏の陣では

天王寺・岡谷の戦いで天王寺口の将として

出陣しています。

この時真田信繁(幸村)と共に奮戦し、

討ち死にしています。

 

 

 

では、本日も最後までご覧くださって

有難うございます!

Sponsored Link

Sponsored Link

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ