直江兼続、兜に愛!景勝と共に歩んだ生涯。真田丸のキャストは村上新悟。

群雄割拠した戦国時代に、

類まれな才覚と智謀で、

主君・上杉景勝を支え続けた

直江兼続

兜の前立てには、愛の文字と瑞雲!

後年、豊臣秀吉より、

豊臣姓を賜り、山城守を任じられます。

 

天下人・徳川家康に

世に有名な直江状

送り付けた事でも有名です。

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http://yamagata6.blog118.fc2.com/blog-entry-63.htm…

NHK大河ドラマ「真田丸」では、

クールで冷徹な切れ者、

といった人物像で描かれていますが、

とにかく、1本筋が通った、

直江兼続の生きざまをまとめてみました!

 

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家康、秀吉も一目置いた上杉の名宰相・直江兼続とは

直江兼続の風貌

直江兼続、

NHK大河ドラマ「天地人」では

妻夫木聡さん。

今回の大河ドラマ「真田丸」では

村上新悟さんと、

やはり、シュッとしたイケメン

想像しますよね。

 

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http://www.jalan.net/jalan/doc/theme/taiga/tenchij…

実際のところは、どうだったのでしょう?

 

「常山紀談」には、

大男にて、百人にもすぐれるもったいにて、

学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。

恐らく天下の御仕置にかかり候とも、

あだむまじき仁体なり」

と、べた褒め。

他の資料にも、

背が高く、容姿は美しく、言葉は晴朗

とあります。

 

やはり、容姿だけではなく、

文武に優れていたという評価のようです。

 

 

直江兼続の生い立ち

直江兼続は永禄3(1560)年、

越後国南魚沼郡上田庄で生まれます。

 

 

父は、坂戸城主・長尾政景(上杉景勝の実父)の

炊事係として仕える樋口兼豊です。

 

 

母は、諸説あり

信州・泉重蔵の娘で名は、藤(ふじ)、

または、蘭子(らんこ)、

直江近綱の娘・藤(ふじ)

と、明確ではありません。

 

 

兼続は長男として生まれ、

幼名を与六(よろく)と言い、

幼い時から利発だったと言われています。

 

 

その利発さに目をつけたのが、

上杉謙信の姉であり、

上杉景勝の母である

仙桃院でした。

 

樋口与六(後の直江兼続)が

4歳の時に、景勝の実父・長尾政景が

野尻湖で溺死してしまいます。

 

そのため、景勝は謙信の養子となり、

仙桃院と共に春日山城に入ることになります。

 

この時に仙桃院は利発な与六を

景勝の小姓として推挙します。

 

 

このようにして幼い頃から、

与六(兼続)は、景勝と共に

学び、遊び、まさに寝食を共にして

生きてきたということになります。

 

ですから、母・仙桃院の

人を見る目が優れていたということでしょうか。

 

 

初陣・直江兼続の誕生

初陣の正確な年月日等は不明ですが、

1578年3月13日に上杉謙信が

急死し、その跡目相続争い・御舘の乱で、

父・樋口兼豊と共に、上田衆として

奮戦したことが伝わっています。

 

年齢的に18歳ですから、

この戦が初陣なのではないかと

推察します。

御館の乱は、景勝と

謙信のもう一人の養子・景虎との間で

起こった争いですが、翌年には

景勝勝利で終わっています。

 

 

ところが、この戦後の論功行賞が

上田衆に厚く、偏っていたことから

家臣の間で揉め事となり、

与坂城主・直江信綱が斬殺されてしまいます。

 

ここで、上杉景勝は、

名家・直江家の断絶を惜しみ、

直江信綱の妻・お船の方

兼続を婿入りさせます。

これにより、直江兼続が誕生したのです。

気骨ある上杉武士!直江兼続の活躍

兼続とお船が結婚したのは、

1581年11月頃と言われていますが、

これ以降、兼続は戦に、外交に、

内政にと、その手腕を発揮していきます。

 

しかし、これからしばらくは

上杉家存亡の危機ともいえる、

厳しい時代を迎えます。

 

 

同じ1581年に北越後の新発田重家が

織田家と手を組み上杉家を挟み撃ちにします。

 

 

同盟していた武田勝頼も1582年3月に

天目山で自決してしまいます。

 

 

同年、織田勢は柴田勝家を大将に、

40000とも言われる兵力を動員し

上杉・魚津城を攻撃します。

 

 

この時、魚津城から直江兼続宛に

援軍要請の書状が届けられています。

これに対し景勝は、

1582年5月に

上杉本隊5000を率いて

春日山城を出発しています。

しかし、1582年6月3日に

魚津城は陥落しています。

 

と、ここまで来れば歴史好きの方なら、

この日がどのような日か、

もうおわかりですよね!

 

そうです。

 

 

1582年6月2日にあの、

本能寺の変が勃発し、

織田信長は自刃するのです!

その翌日に魚津城陥落ですから、

もう少し持ちこたえられたらなと、

惜しまれますね。

 

 

でもこの籠城兵たちはさすが上杉と

織田勢を驚かせています。

半年近くも、7万とも言われる

織田の大軍の猛攻に耐えたのですから。

 

 

上杉滅亡の危機は、

本能寺の変で織田軍が瓦解したことにより

終息します。

 

 

本能寺の変で織田家を滅ぼした

明智光秀は、羽柴秀吉により

討ち取られます。

 

その後、秀吉は

上杉に協力を要請していますが、

景勝もこれを受諾します。

 

 

しかし、滅亡寸前までに

国力が疲弊していた上杉は、

秀吉が要請した柴田勝家攻めにも、

1584年の小牧・長久手の戦いにも

出兵することはできませんでした。

 

 

この頃の上杉家は、

直江兼続が殆どの内政・外交を

執っていたといわれています。

 

 

越水の会(おちみずのかい)・秀吉との同盟

1585年8月、

豊臣秀吉は10万の大軍で

富山城・佐々成政を包囲します。

同じく上杉景勝も、魚津城奪還のため、

佐々成政とにらみ合っていました。

 

 

この時に豊臣秀吉は、上杉景勝に

会談を申し込み、僅かな供回りを連れて

越水城へと向かいます。

 

景勝も直江兼続他70名ほどの人数で

越水城に入り、秀吉一行を迎えます。

 

実はこの会見で、上杉方の一部の家臣が

景勝に秀吉を討ち取ることを

進言したと言われています。

しかし、景勝は「義の無い戦」は

しない主義です。

 

 

この会見で、豊臣家と上杉家は

同盟関係を結び、

この時から、

石田三成と直江兼続は盟友となった

言われています。

世に言う、「越水の会」落水同盟です。

 

 

 

豊臣政権時代の兼続、文武の活躍

天正11(1583)年、山城守に

叙せられます。

天正13(1585)年には、

新発田重家をじわじわと追い詰め、

天正15(1587)年10月28日

新発田城落城により、長きに及ぶ

乱を終結させます。

 

 

秀吉の命で朝鮮に出兵した際に、

兼続は、景勝に従い朝鮮に渡っています。

 

しかし、この戦に益なしと踏んだ兼続は、

漢籍が焼失することを惜しみ、

自国に持ち帰ったとされます。

 

 

それがその後、米沢藩士の

学問所の図書となり、藩士教育に

役立てられます。

 

更にこの漢籍は、現存するそうです。

 

その他、民政に関しては、

農民に新しい田畑の開墾を推奨したり、

カラムシという植物から採れる蒼いもを

織りあげた布を増産させ、

京で売りさばきます。

これにより、上杉家の財政は

謙信時代にも劣らぬほどに

栄えたと言います。

 

 

天下に轟く直江状

慶長3(1598)年8月18日に

秀吉が死去。

 

上杉景勝は、慶長5(1600)年3月、

神指城の築城や、道路の整備

行っていましたが、

これを謀反の疑いあり、とされます。

 

 

徳川家は再三の上洛命令を出しますが、

景勝はこれを受け入れませんでした。

 

兼続は、徳川家康に対し

景勝に謀反の意志など

さらさら無い旨の書状を送り付けます。

 

これが世に有名な「直江状」

この内容が家康を激怒させ

上杉討伐へ向かわせたと言います。

 

「直江状」の原本は、残っておらず、

後世の写ししかありませんが、

 

・上杉景勝は経営が忙しく上洛できない

・こちらは雪国で、10月から3月までは

 動けない。

・上方の武士は茶器等を集めているようだが、

 田舎者の我らは、戦国の習いが忘れられず、

 武具の調達をしている。

等々・・・。

何しろ、長い文章なので、

全てはご紹介できませんが、

まあ、徳川を敵に回す気満々の文面!

 

よくぞ、関ヶ原の後に

上杉家お取り潰しにならなかったこと。

 

 

この「直江状」をみて、

上杉上洛の意思なしと判断した

家康は、上杉討伐を開始します。

 

 

その途中で、石田三成挙兵、

関ヶ原の戦いの勃発となるのです。

上杉家は勿論、西軍・三成側です。

 

上杉家は、伊達家・最上家と対峙して、

激戦を繰り広げていましたが、

西軍敗北の知らせを受け、

撤退を余儀なくされます。

この時、殿(しんがり)を務めた兼続は

2万ともいわれた大軍を

無事に米沢に撤退させます。

 

この撤退ぶりが見事さは

後の語り草となり、

兼続は敵である最上義光や、

徳川家康にも称賛されたと言います。

 

 

こうして120万石まで

繁栄した上杉家も関ヶ原の戦いで、

西軍が敗北したことにより、

再び窮地に立たされます。

 

 

結局この後、上杉家は、

結城秀康のとりなしにより、

家康に降伏することとなります。

 

 

そして、120万石から一挙に

30万石へと減らされ、

米沢藩へと減移封されるのです。

 

米沢藩の礎を築く

減移封された後も、上杉家は

家臣を減らすことがなかったため、

兼続は自らは質素倹約に務め、

藩の治水事業や(直江石堤の建設)、

新田開発、鉱山開発を奨励し、

藩の財政を護ったとされます。

 

 

 

また、徳川重臣・本多正信の次男・政重を

娘婿に迎え、徳川家との融和を図っています。

 

あの戦国無双などで人気の

前田慶次も、上杉家に仕官し、

米沢減移封後も上杉家に留まっています。

 

 

文武両道に秀でた、兼続と慶次は、

お互いに魅かれ合うところが

多かったようです。

 

 

兼続の死。

幼少の頃から上杉景勝に仕え、

兄弟のように育った兼続。

 

 

景勝より5歳年下でしたが、

亡くなったのは兼続が先でした。

 

元和5(1619)年12月19日、

江戸鱗屋敷で病没します。

享年60歳。

 

 

景勝は、病に伏した兼続のため、

最善の治療を受けさせたと言います。

 

また、徳川幕府は兼続の死に際し、

賭典銀50枚を下賜したそうです。

 

 

直江家断絶!なぜ?

お船との間に産まれた

嫡男・景明(かげあき)は、

慶長20(1594)年、

大阪の陣の翌年に病没しています。

大阪の陣では、父・兼続と共に

奮戦し、功を立てたといいますが

22歳で父に先立っています。

 

長女の於松(おまつ)に、

本多正信の次男・政重を

婿に迎えますが、結婚翌年に

於松も20歳で早世しています。

このため、養子縁組を解消しています。

 

次男は清融阿闍梨

早くから出家し、

高野山龍光院36世住職、

一乗院14世住職、宝亀院住職を

兼務したといいます。

 

 

他に、生年不詳の娘

いますが、名前も梅?

と、詳細は不明です。

 

このようにして、後継がいないために

直江家は断絶します。

 

 

しかし、一説には

主君を誤らせ、上杉家が減移封となった

責任を感じていたため、

高禄の直江家の知行を返上することが

目的であったのではといわれています。

 

 

直江家ほどの名家なら、

存続させようと思えば、

いくらでも方法はあったでしょうに、

そうしなかったというのは、

兼続の強い想いがあってのことでしょう。

 

 

兼続は、終生側室は持ちませんでしたし、

その点でも、何だか執着の少ない

スカッとした人間性を感じます。

 

 

兜には瑞雲の上に‟愛”の前立て!意味は?

 

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http://matome.naver.jp/odai/2142400305989122501

 

兼続が兜の前立てに

‟愛”をあしらった理由は

諸説囁かれています。

 

 

軍神である

‟愛染明王”あるいは、‟愛宕権現”

この一字を取ったものでは、

という説が有力のようです。

 

瑞雲

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http://plaza.rakuten.co.jp/hibiki327/diary/2006080…

 

愛染明王は、点弓を持つ軍神です。

神はこの世に姿を現す時には

雲に乗ってあらわれるといわれて

います。

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http://isumu-shop.jp/language/003031-fl.html

瑞雲は、吉祥を現わす雲で、

兼続の兜には‟愛”の字の下に、

瑞雲があしらわれていることから、

この説が有力と言われています。

 

 

 

もうひとつ、

愛宕権現説、こちらも軍神信仰として

戦国時代の武将が信仰していたと

いわれています。

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http://pentacross.seesaa.net/archives/201010-1.htm…

上杉家領地には、愛宕信仰があったことから、

こちらも有力な説とされています。

 

もう一つあるとしたら、

上杉家、景勝への‟愛”ですかしら。

 

 

でなければ、

私財を投げ打って、上杉家を支えたり、

家名断絶しても、上杉の経済を

救おうとしたりは、できませんよね。

 

 

上杉のため、景勝のため、

ある時は影となり、ある時は表となって

支え続けた直江兼続。

 

 

後年、名君・上杉鷹山は、

藩政改革の折に、直江兼続の

政策を手本にしたといわれています。

 

 

NHK大河ドラマ「真田丸」で、直江兼続を演じる村上新悟さん

 

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http://arasujinetabare.com/dorama/post-1886.htm

村上新悟さんは、

栃木県出身、

1974年12月10日生まれです。

仲代達矢さんが主宰する「無名塾」

出身です!

 

芸がしっかりしているはずです!

 

 

大河ドラマは、本作で

5作目ということですから、

実力を認められているのでしょう。

 

 

お姿も良いですけれど、

何といっても、声が良いですよね!

あの低い声で、語られると、

凄みを感じます。

 

容姿端麗で、智謀に優れた勇将、

直江兼続のイメージに

ピッタリですね。

 

 

今回の大河ドラマ「真田丸」では、

「天地人」の直江兼続とは

違った人物像を表現したい

おっしゃっているようですので、

今後ますます楽しみですね!

 

 

では、本日も最後までご覧いただき

有難うございました。

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