上杉景勝の人物像に迫る、第2弾!真田丸では、幸村に「義」を教える!

上杉景勝は弘治元年(1555年)

10月27日、長尾政景の次男として生まれます。

上杉謙信の姉・仙桃院を母に持ちます。

父・政景が死没後、謙信により

母・仙桃院と共に

春日山城へ引き取られ、謙信の養子となります。

sanadamaruuesugikagekatu

http://www.uesugi-museum.jp/?pid=66607428

上杉景勝の生い立ちや、

「御舘の乱」について、

本能寺の変で、滅亡の危機から

免れたことなどは、

コチラの記事でお伝えしています。

 

 

本日は、前回の記事の続編として、

史実に残るエピソード等も

ご紹介しながら、

上杉景勝という人を、さらに

深掘りしていきたいと思います!

また、

NHK大河ドラマ「真田丸」での

真田信繁(幸村)との関わり

お伝えしていこうと思います。

 

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上杉景勝の生涯、年表形式で!

1555年10月27日
    景勝誕生

天正6(1578年)年
    上杉謙信病没
    景虎との家督争い(御館の乱)で
    勝利し、春日山城主となる。

天正8(1580)年
    直江兼続を家宰として
    重く用いる。

天正9(1581)年
    織田信長との関係悪化

天正10(1582)年
    魚津城陥落、上杉家絶体絶命の危機
    6月に本能寺の変が起こり、
    織田勢が撤退。

    九死に一生を得る。

    信長の死後は北条氏直と争う
    天正壬午(てんしょうじんご)の乱勃発

※若年の折から、苦労続きの景勝ですが、
 この頃が最も苦しい時代だったかも知れませんね。
 ドラマティックで、面白い人生です!

 
天正11(1583)年
    羽柴秀吉とよしみを通じるも、
    賤ヶ岳の戦いでは、佐々成政と
    にらみ合いになり参戦できず。
 
 
天正13(1585)年
   真田昌幸を従属させる

天正14(1586)年 
   羽柴秀吉と会見し、臣従。
   越中国と上野国を放棄するかわりに
   佐渡・出羽の切りとりを許される。

   これにより、真田家は独立大名となる。

   正親町天皇より右近衛少将に任じられる。

天正15(1587)年
   新発田重家(しばたしげいえ)の乱を
   鎮圧。越後統一を果たす。

天正16(1588)年
   再度上洛す。
   豊臣姓と羽柴の名字を下賜される。

   6月15日従三位・参議に昇叙。

天正17(1589)年
   本間氏を討伐し、佐渡国を平定
   支配領域が90万国となる。

天正18(1590)年
   秀吉の北条討伐に参戦。
   前田利家真田昌幸らと共に、
   北条方諸城を攻略す。

文禄元(1592)年
   秀吉の命で朝鮮に出兵する。

文禄2(1594)年
   中納言となり、「越後中納言
   と呼ばれるようになる。

文禄4(1590)年
   豊臣家の五大老となる。

慶長3(1598)年
   秀吉より会津120万国に加増移封される。
   要の米沢城には、直江兼続を配した。

   この年8月に秀吉死去
   景勝は、東北諸大名と家康の監視と
   牽制という使命を課せられる。

  
慶長5(1600)年
   2月には、領内諸城の補修

   3月に新城・神詣城を建築。

   4月に家康からの上洛命令を拒否。
   直江兼続が世に有名な「直江状」を
   家康に送りつけた時期。

   これにより、家康の会津・上杉討伐が決定。

   7月に西上する家康を迎え撃つため
   会津から出兵。

   石田三成が挙兵

   景勝は東軍の伊達政宗、最上最上義光と
   戦う。(慶長出羽合戦

   9月15日関ヶ原の戦いで西軍が敗北
   したため、12月に家康に降伏する。

※この慶長5年が、景勝の運命の分かれ道に
 なります。
 しかし、先を読んで不利だとわかっていても、
 景勝は、豊臣家を裏切りませんでした。
 ホント、すっきりした良い男!

慶長6(1601)年
   2月上旬、上杉景勝と直江兼続が上洛。
   結城秀康のとりなしで家康への謝罪が許され、
   上杉家は出羽米沢30万国に減移封
   決まる。

慶長9(1604)年
   2月菊姫死去

   5月側室との間に嫡男・玉丸(定勝)誕生

※普通、戦国大名は側室をたくさん置き、
 子供なんてザクザクいるのが普通ですが、
 景勝の側室は、後にも先にも定勝の母のみ。
 子供も、嫡男・定勝のみです。

慶長10(1605)年
   徳川秀忠の将軍宣下に参列

慶長14(1609)年
  2月に母・仙桃院死去。

慶長19(1614)年
   10月に大坂冬の陣に参戦。
   徳川方として鴨野の戦いに参戦し
   大功をあげる。

慶長20(1615)年
   4月大阪夏の陣が始まり、
   京都警護を担当する。

   5月大阪落城

元和9年(1623)年
   3月20日
   上杉景勝死去
   享年69歳
  
   家督は嫡男上杉定勝が継ぎ、
   米沢藩上杉家は幕末まで存続する。

いかがですか?年表形式で、

上杉景勝の生涯をサクッと

ご覧いただきました。

大きな合戦、小さな合戦と

戦国時代は凄いですよね。

以下に景勝の人となりを

ご紹介致しますが、

なるほどなぁ~、こうでなければ、

一国を守り切ることなんて、

出来ないよねって、納得されると思いますよ。

 

 

上杉景勝の性格は?男気溢れる越後の雄!

上杉景勝の性格の特徴は、

寡黙(かもく・口数が少ない)で

剛直(ごうちょく・気性が強く信念を曲げない)

律儀(りちぎ・きわめて義理堅いこと)

果断(かだん・物事を思い切って行うこと)

であったといわれています。

 

「小男にて、月代(さかやき)をびんぐなりに差し、

 面(おもて)豊かにして、両眼勢人を凌ぐなり。

 生得大剛、一大将軍なり。

 先年既に敵に喰付き、鉄砲・矢叫・鬨(とき)の声 

 天地を響す。

 諸人固唾を呑んで、手に汗を握るとき、幕の内にて

 休み居て、高鼾(たかいびき)かき、何とも存ぜず、

 臥せられ候様なる大勇なり。

 素性言葉少なき大将にて、一代笑顔見たる者なし。

 常に刀・脇差に手を懸けて居らる。」

http://www.sengokudama.com/contents/naoe/03.html

 

要するに、背は低いが眼光鋭く、

声も大きい。生まれながらに

大将の器を持っている。

少々のことでは慌てず、

諸将が手に汗握る様な戦場でも、

幕の内で高鼾を書いて寝ることが

できるくらい、肝が据わっている。

口数が少なく、生涯一度も

笑顔を見た者がいないほど。

とまあ、こんな感じでしょうか。

 

威風堂々とした大将の姿が浮かびますね。

 

 

現代人には、美徳と思えないような面でも

戦国武将としては、優れた性質として

捉えられていたようです。

 

 

だって、今風にいえば面白みのない

男性像が浮かびますよ!

寡黙:面白いこと一つも話せなくて、

   むっつり黙ってるし、

   つまんないの!

剛直:あれだけ言ってやっているのに、

   融通が利かないっていうか、

   頑固なんだから!

律儀:馬鹿正直に義理立てしたって、

   使い捨てにされるのがオチよ。   

果断:果断に決断したっていうよりは、

   後先考えてないだけじゃん。

 

なんて、こき下ろされるのが普通かなぁ~~(笑)

 

 

いかに笑わなかったか、という逸話は、

以下のようなものがあります。

感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる。

ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、

もっともらしくうなずいたり、部下に指図したりといった

自分の物まねをしていたのを目にし、そのあまりの可笑しさに

思わず笑みをこぼしたが、これが生涯でただ一度

家臣たちの目前で見せた笑顔であったという(上杉将士書・上)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D

 

面白いですね!

景勝の真似をするなんて、

よほど可愛がられて、

懐いていたのでしょうね!

sanadamaruuesugikagekatusenngokumusou

http://www.ixawiki.com/index.php?BushoCard%2F2025%…

この画像、お借りしました!

あまりにイメージピッタリなので!

 

 

でも、性格と言いましょうか、

人生観・人間観といいますか、

その点で、これほど魅力ある、

気がいのある武将は他に居るだろうか?って

思える点があるのですよ。

 

それを、次の項目で

ご紹介しますね。

徳川幕府に命じられても、キリシタン弾圧を行わなかった気概!

 

このことは、本当に素晴らしいなあって

感心しますし、人を信仰で切り捨てることなく

能力で評価するとは、この時代に

なかなか、困難もあったのでは

ないでしょうか?

 

 

徳川幕府が禁教令を出し、

元和6(1620)年の仙台藩から

始まった東北諸藩のキリシタン弾圧を、

米沢藩は景勝が亡くなる

元和9(1623)年まで

行っていません。

幕府に対し、

「当領内には、一人のキリシタンも御座無く候」

と、突っぱねたと言いますから、

さっすがですね!

 

 

それは、景勝のこのような想いが

あったからです。

 

優秀な人材を失いたくないという思いと

苦楽を共にした家臣を、見殺しにはできない

この二つでしょうか。

 

この思いを裏付けるように、

慶長5年に、徳川幕府より

陸奥国会津(120万国)から、

出羽国米沢(30万国)へ

移封の命が下った時のことです。

 

90万国も減らされたら、

たまったものではないですよね!

これが企業なら、

真っ先に、‟リストラ”ですよね!

 

でも、景勝はそんなことは

しなかったです。

なんと、家臣を一人も

減らさなかったそうです。

 

これにより、苦労を味わった

ようですが、この時にも

家宰・直江兼続の尽力などで、

乗り切っています。

 

直江兼続については、別記事で

書かせていただきますね!

 

 

ね、家臣が震えあがるほど

威厳があったお殿様ですけど、

一味違いますでしょう?

 

 

金がなかろうと、

宗教がどうだろうと、

そんなことよりは、『人』

だったのでしょうね!

 

 

だからこそ、家臣もついて行ったし、

幕末まで残ったのでしょう。

 

 

そういえば、あの武田信玄

人は城、

人は石垣、

人は堀、

情けは味方

仇は敵なり

なんて言う名言を

残していますよね!

 

なるほど!景勝公の正室は

武田信玄公の五女(六女との説もある)

菊姫でしたね!

菊姫との夫婦仲はどうだったのでしょうね?

それは、次の項目で!

 

 

上杉景勝の正室は、あの武田信玄公の五女・菊姫!

菊姫については、本記事では

サクッとお伝えします。

これもまた、別記事で

タップリ書きたい気分です!

菊姫は、永禄元年(1558年)に

武田信玄の五女として生まれます。

 

天正7(1579)年に締結された

甲越同盟の証として、

上杉景勝に嫁ぎます。

 

 

はっきり言って政略結婚です。

 

この菊姫は、景勝が景虎と

上杉謙信の跡目争いの戦、

御館の乱の最中に嫁していますので、

質素倹約を奨励したといいます。

 

才色兼備で、家臣からは

甲斐御寮人、甲斐御前、甲州夫人

呼ばれ、尊敬されていたそうです。

 

 

嫡男の第2代米沢藩主・定勝は、

菊姫が産んだ子ではありません。

しかし、菊姫が嫁して後、上杉家では、

武田遺臣を大切に扱っています。

景勝は、「女嫌い」と

噂されるほど、身辺に女性を

近づけなかったと言われています。

そのため、菊姫との不仲説

あるようですが、そちらの方は

信憑性が薄いようです。

 

 

なぜなら、

菊姫は慶長9(1604)年に

享年47歳で亡くなっていますが

その時の景勝の悲しみぶりが

「悲嘆カキリナシ」と、

上杉家御年譜に残されています。

 

 

上杉景勝が着用していたと言われる甲冑(かっちゅう)とは?

そもそも、甲冑とは?

これは、鎧(よろい)と兜(かぶと)

のこと。

 

 

景勝が愛用していた物と言われるものが

以下の2点です。

鉄黒漆塗紺糸縅異製最上銅具足
(てつくろうるしぬりこんいとおどしせいもがみどうぐそく)

sanadamaruuesugikagekatukattyuu

https://www.pinterest.com/mblghirasawa/%E7%94%B2%E…

兜の裏に「永禄六年八月吉日」と

文字が刻まれていますので、

上杉景勝が8歳の時に作られたものです。

謙信時代に作られたもので、

家督を継いだ景勝が用いていたと

伝えられています。

卍の下に猪(摩利支天)が彫られた

大型の前立てがあります。

新潟県立歴史博物館所蔵です。

 

 

浅葱糸威黒皺韋包板物二枚銅具足
(あさぎいとおどしくろしぼかわつつみいたものにまいどうぐそく)

sanadamaruuesugikagekatuasagiitoodosi

http://samurai-armor.jp/armor/1691/

上杉景勝が、米沢藩初代藩主の頃

着用した物とされています。

この具足は、前銅八段を韋綴にし、

全体を黒い皺のようなでこぼこの韋

とされています。

また、胴が前後二枚に分かれれるものを

二枚胴というそうです。

甲冑の他、上杉景勝は、

愛刀家としても有名で、

相当の目利きであったようです。

収集物は、国宝級だそうですから

これもさすが!

 

 

上杉景勝は真田丸ではどのように描かれているのか?

武田家とも縁が深かった

上杉家は、真田家ともご縁が

深いですね!

 

 

今のところ、真田昌幸(幸村の父)が

真田家を守るため、

上杉に服従すると見せかけて、

裏切ったりと定まった関係では

ありません。

 

 

しかし、両家のかかわりの見どころは、

まだまだこれからです。

 

上杉景勝が、『義』の人

なかったならば、

きっと後の真田家も

真田幸村の活躍も

無かったのでは?と思います。

 

そのくらい、真田家にとって

上杉景勝という人物は重要ですし、

大恩があります!

 

年表でもおわかりいただけるように、

真田家は、上杉家に臣従します。

 

ちょうど、真田家が無謀にも

徳川家を相手に大戦を仕掛けたころです!

物語はますます面白くなりますよ!

 

 

春日信達の調略は、真田が裏で

糸を引いていたと知った

景勝公は、激怒します。

上杉を裏切り、北条と手を組んだかと

思った矢先に次は徳川と手を結ぶ。

このあたりは、もし宜しければ、

本サイトの関連記事でご覧ください。

ところが、徳川と北条が

和議を結ぶことになり、

血の滲むような思いで守ってきた

沼田領が奪われそうになったのです!

これはもう真田家は決死の覚悟、

徳川とは手切れとなります!

 

 

したがって、真田は

上杉の力を頼みにするしかないわけです!

 

 

真田昌幸の面の皮の厚さに、

あきれ果てている景勝でした。

しかし、景勝は信繁を気に入り、

上杉が真田家と手を組むことを

承諾します。

 

 

池波正太郎先生がお書きになられた、

「真田太平記」では、

ここのところは、本当にドラマティックに

描かれています。

 

上杉景勝は

真田とのこれまでの確執を反故にし、

盟約を結ぶためには、

真田昌幸・信繁共に

春日山城に来るように、と言います。

 

 

暗殺される恐れがあると反対する

真田家家臣を振り切って、

真田父子は、景勝に面会します。

 

当然、信繁は上杉への人質として

伴っていったのでした。

 

 

ところが、真田父子と面会した

上杉景勝は、暗殺するどころか、

信繁を人質に差し出すという

昌幸に対してこう言います。

 

 

上田の城で徳川・北条勢と

戦うのだから、まず勝ち目はあるまい。

であれば、親子ともども

思う存分戦い、討ち死にすればよい。

もし、生き残った場合、

その時に人質に来ればよい。

と。

感動の言葉ですよね。

『義』の人、上杉景勝にしか、

できない事。

 

 

恐らく、

NKH大河ドラマ「真田丸」でも

これに近い、上杉景勝の剛毅な姿を

見せていただけそうですよ!

第1次上田合戦の直前の話ですから

もうそろそろですよね。

第12話から13話になります。

 

詳細は、ネタバレ記事で

お伝えしますね!

 

第1次上田合戦で真田家は

徳川をコテンパンにやっつけます

 

7000とも言われる軍勢を、

2000に満たない真田勢が

打ち破ったのですから、

びっくりぽん!ですよね。

 

 

生き残った真田家は、

約束通りに信繁(幸村)を

上杉家へ人質として出します。

信繁(幸村)19歳の時です。

 

しかし、景勝は信繁(幸村)を、

人質としては扱わず、

客分として扱い、

我が子のように可愛がったと

いわれています。

 

 

そして、このときに景勝から学んだ

「義」の心が、

この後の戦、関ヶ原の戦いや

大坂の陣で花開くのではないでしょうか?

 

 

信繁(幸村)が、

日の本一の兵(ひのもといちの つわもの)と、

日本国中にその名を轟かせることが

できたのは、

 

あの時

上杉景勝が、真田父子を助け

その後、人質の信繁(幸村)を

大切に訓育したことによる処が大きいと

私は思います。

 

 

上杉景勝は、

日の本一の大将(ひのもといちのたいしょう)

でした!

では今日も最後までご覧くださって

ありがとうございました。

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