滝川一益の命運尽きる!真田丸では6話と7話だが、昌幸との浅からぬ縁とは?

滝川一益は1525年、滝川資清の次男として

産まれます。

鉄砲の才を、織田信長に認められ、

士官後は、出世街道をまっしぐらでした!

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http://matome.naver.jp/odai/2145265619210803501

 

 

‟進むも滝川、引くも滝川”

戦巧者をうたわれた勇将・滝川一益

 

本能寺の変の後は、

坂道を転がり落ちるように

転落して行きます。

 

NHK大河ドラマ「真田丸」では、

ちょうど、本能寺の変から10日ほど、

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が

明智討伐に成功したころですね。

 

さて、本日は

滝川一益の生涯を振り返り

浅からぬ縁を結ぶことになった

真田家・真田昌幸との縁をまとめていきます。

 

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若き日の滝川一益は鉄砲の名手だった!

滝川一益は、若い頃に泉州堺に出て、

鉄砲の技術を学び、その腕は

百発百中と言われたほど、

優れていたそうです。

1555年31歳の頃、一族の争いが元で、

故郷の甲賀を出奔しています。

とにかく相当なワルガキだったらしく、

甲賀の出ということで、

元は忍者の血を引くのでは?

しかしこれは憶測です(笑)

 

その後、親族の一人である、

織田家家臣・池田恒興の仲介で

織田信長に紹介されます。

 

滝川一益の鉄砲の腕出前を検分した

信長は、その腕の確かさに驚き、

即座に家臣に取り立てた

と言われています。

 

新参者として、織田家中で転戦する一益!

織田信長に認められ、

家臣となった滝川一益は、

さすがワルガキ!

戦巧者だったようで、

出世街道まっしぐらです。

 

腕っぷしだけでは、戦には勝てませんし、

調略で相手を落としたりもして いますので、

頭脳も明晰だったのでは、

と思われます。

 

 

少し年表でまとめました。

1567年 : 北伊勢に侵攻・上木氏、木股氏、

      持福氏を調略

1568年 : 信長の北伊勢侵攻に伴い、

      一益は戦略を駆使して、
 
      北伊勢の豪族を攻略

1569年 : 信長、伊勢の名門・北畠家を攻略

      一益の画策もあり、平定。

      信長より、安濃津城・渋見城・木造城の

      守備を命じられる。

1570年 : 石山本願寺の戦いが始まり、

      長島一向一揆が蜂起。

      一益、桑名城で籠城。

      この時織田信長の弟・織田信興が

      打ち取られる。

1572年 : 三方が原の戦いで、徳川家康の

      浜松城籠城を支援。

1573年 : 一乗谷上の戦いに参戦

      8月浅井氏滅亡

      9月、2回目の長島攻めに参戦。

1574年 : 3回目の長島攻めで、一益は

      九鬼嘉隆と共に水軍として出陣

      伊勢長島城を兵糧攻めにする。

      伊勢・長島の一揆衆は、捨て身で

      抵抗したため、信長はこれを

      焼き討ちにします。

      長島城はその後滝川一益が入城し、

      北畠の遺臣を多く召し抱えます。

1575年 : 長篠の戦いで武田勝頼との決戦を制す。

      越前一向一揆に参戦

1576年 : 天王寺合戦に参戦

1577年 : 紀州征伐に参戦

1578年 : 木津川の戦いで、毛利水軍を迎え撃つ

1579年 : 荒木村重の裏切りで、その居城

      有岡城攻めに参戦

1580年 : 4月に本願寺顕如信長に降伏する。

1581年 : 信長の伊賀攻めに参戦。

1582年 : 武田勝頼討伐に参戦。

      織田信長の嫡男・信忠の軍監として

      高遠城攻略に貢献。

      武田勝頼を天目山で自刃。

      信長より、上野一国、小県郡・佐久郡を

      与えられる。

転戦に次ぐ転戦、戦巧者でもあり、

調略にも長けていた滝川一益は、

新参者でありながら、この頃には

織田家四天王のひとりと呼ばれるほどの

武将に出世しています。

 

 

真田家との縁もこの時に生まれます。

しかし、この年1582年6月に起こる

天下の大事件により、滝川一益の人生は、

一変するのです!

 

 

 

『本能寺の変』で狂った一益の人生設計!

NHK大河ドラマ「真田丸」では、

6話で本能寺の変後の迷走する

真田家の姿が描かれますが、

うろたえるのは、何も真田家だけでは

ありません。

 

滝川一益が信長より上野を拝領して

まだ3ヶ月足らずです。

 

地盤を固める暇もないままに、

5万の大軍で上野に侵攻してきた

北条と戦うことになります。

 

世に言う‟神流川(かんながわ)の戦い”です。

これには、真田昌幸も滝川一益の

配下として参戦しています。

 

 

この時一益は、徳川家康に

援軍を求めますが、

家康は、援軍を送る振りをしただけでした。

 

 

結局最後まで戦ったのは

滝川一益本隊の3千ほどの兵のみとなり、

一益は敗走することとなります。

 

 

滝川一益は、伊勢・長島に敗走するに

あたり、上野の諸将から預かった人質を

少しずつ開放していきます。

 

 

途中、木曽義昌が通行を拒否したため、

真田昌幸の母・とりなど、佐久・小県郡の

人質を引き渡すことにします。

 

 

これにより、一益は漸く美濃まで

到達しますが、その時すでに

織田家の跡目を決める‟清州会議”

終わっていたのです。

 

 

もし、本能寺の変が起こらなかったら、

滝川一益は、天下人・織田信長の元、

大大名に取り立てられていたでしょうに!

人生って皮肉ですよね・・・。

 

 

後の天下人・羽柴秀吉との対立

肝腎かなめの清須会議に間に合わず、

大徳寺での信長の法要に訪れた

滝川一益でしたが、

 

羽柴秀吉から

「滝川殿の席はありませぬ。」

と門前払いを食わされます。

 

 

これが、二人の仲を決定づけることに

なりました。

 

 

その後、織田家は

三法師を擁立した羽柴秀吉

織田信孝を擁する柴田勝家との

跡目争いが始まります。

滝川一益は、柴田勝家に味方をしますが、

1583年3月に、柴田勝家は

越前・北ノ庄で、織田信長の妹、

浅井長政の妻であり、その後柴田勝家に

嫁いだお市の方と共に

自害します。

 

 

4月29日に織田信孝が切腹し、

滝川一益は所領全てを没収され、

京都妙心寺で剃髪・出家します。

 

 

しかし、1584年、小牧・長久手の

戦いが始まります。

 

徳川家康を頼った織田信雄が、

羽柴秀吉に反旗を翻したのです。

 

この戦いの折に、秀吉は

滝川一益に出仕を求めています。

一益は旧臣と共に参戦し、

戦功をあげます。

ただ、滝川一益はこの後にに守っていた

蟹江城を徳川方に猛攻され、

降伏してしまいます。

 

 

これに怒った秀吉は、

滝川一益の嫡男・滝川一忠を追放します。

滝川家の家督は次男・一時が継ぎ、

一益は隠居生活になります。

 

 

結局、小牧・長久手の戦いは

勝敗の決着が着かぬまま、

和睦で終わりますが、

和平交渉には、滝川一益が当たりました。

 

 

このように、余生は交渉などで手腕を

発揮したようですが、

武将としては、小牧・長久手の戦いで

命運が尽きることとなります。

 

1586年9月9日、越前・大野にて

享年62歳で死去します。

 

 

滝川一益と真田昌幸の浅からぬ縁!

 

NHK大河ドラマ『真田丸』では、

滝川一益が神無川の戦いで、

北条と激突、伊勢へ敗走していくところが

6話~7話で描かれるようです。

sanadamarutakigawakazumasutaitoruyou

http://tetsutyler-durden.hatenablog.com/entry/2016…

このドラマでは、以後一益の登場は

無いものと思われますが、

意外にも、滝川一益と真田家との繋がりは

浅くはなかったのです!

 

 

追放され、浪人となっていた

滝川一益の嫡男・一忠は、

真田昌幸が世話をしたようです。

 

その、一忠の子・一積は、

真田昌幸の5女・於菊を

正室に向かえています。

 

なので、滝川一益の孫は、

真田昌幸の娘と結婚し、

姻戚関係となります。

 

さらに、滝川一積は、大阪夏の陣で

討ち死にした、真田幸村の娘・あくり

養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生氏喜に

嫁がせています。

 

凄いですね~~。

 

やはり、滝川一益と真田昌幸、

勇将と謳われた物同士、

相通じるものがあったのでしょうね。

 

 

お互い苦しい時こそ、

助けていますよね!

 

 

 

武将の人生を辿ると、

色んなエピソードがあって、

本当に面白いです!

 

本日も最後までご覧いただき

ありがとうございました。

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