真田丸【大河】明智光秀のキャストは岩下尚史!『本能寺の変』なぜ?

NHK大河ドラマ『真田丸』

4話で、織田信長役の

吉田鋼太郎さんから、

無残にも欄干に頭を打ち付けられる

明智光秀!

何と!!

 

その明智光秀を演じているのは、

あの、岩下尚史先生だったのですね!!

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http://hotjupiter.net/hakotyan/

作家としては有名ですけど、

今作が俳優デビューだなんて、

三谷さんも、やりますね~~!

 

大抜擢だそうです!!

明智光秀の生涯、本当に面白いですよね。

息女には、あの細川ガラシャさんがおられます。

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http://www.hi-ho.ne.jp/luke852/ukon/ukon010.html

真田丸のストリーの中で登場するかどうかは

わかりませんが、もしかしたら

「関ヶ原の戦い」あたりで、

登場するかもしれませんね。

私としては、是非登場させてほしいですけれど。

 

 

さて、本日はいきなり大河ドラマで

俳優デビューという凄い事を

やってのけた、

岩下尚史さんのwiki風プロフィールと、

明智光秀の人となり、『本能寺の変』とは?

について私なりに、まとめてみました。

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明智光秀役の岩下尚史氏とは?wiki風プロフィールも!

 

 岩下尚史氏略歴

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http://hotjupiter.net/hakotyan/

生年月日 : 1961年6月28日

出身地  : 熊本県菊池市

活動   : 國學院大學客員教授、作家、伝統文化評論家

2007年、「芸者論₋神々に扮することを忘れた日本人」で

第20回和辻哲郎文化賞受賞

岩下尚史さん、元々演劇とはご縁が深いようで、

國學院大学文学部卒業後は、新橋演舞場株式会社に

入社され、企画室長までされた方です。

作家としては、上記のような受賞歴が

あります。

その他、テレビやラジオのコメンテーター

として有名になってます。

チョッとオネエ口調で、

‟おやかましゅうございました”というのが特徴で、

今回の明智光秀さんも、

麿ふうのメークしているようですね。

 

 

でも、実にお声が良いですね!!

それに、上品です!

やはり、少々オネエ調であることは

否めませんが、インパクトはありましたね!!

決して、「キモイ」なんてことはないし、

ある意味、新しい光秀像を

作り出したのではないでしょうか!!

 

 

明智光秀ってどんな人?本能寺の変って?

 

明智光秀とは?

エグスプロージョンの「本能寺の変」で、

若い方々にも認知度高いですよね!

でも、本記事ではもう少し詳しく

お伝えしましょうね!

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E…

生年月日 : 享禄元年(1528年)?

死没   : 天正10年6月13日(1582年7月2日)

幼名   : 彦太郎

通称   : 十兵衛、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)

氏族   : 源姓土岐氏流明智氏

配偶者  : 煕子(ひろこ)

子    : 光慶、珠(細川忠興室・ガラシャ)他

 

清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれています。

光秀は、当初美濃の斎藤道三に仕えますが、

道三・義龍父子の争いで、道三方であった光秀は、

義龍に攻められ一族は離散してしまいます。

その後、越前・朝倉義景の元で、

10年間仕えます。

その義景の元を頼ったのが、

室町幕府13代将軍・足利義輝の弟、足利義昭でした。

 

義昭は、織田信長に対し、上洛して

自分を征夷大将軍につけるよう頼みます。

 

信長に対し、その口利きをしたのが

朝倉義景の元に居た、明智光秀と言われいます。

実は、明智光秀は、信長の正室・濃姫(斎藤道三の娘)

と、従兄弟である、という説があります。

その縁を頼って、信長に要請したのでしょう。

 

信長との縁はここからで、

この後、光秀は足利義昭を離れ、

信長の直臣となります。

比叡山焼き討ちで、武功をあげたほか、

浅井長政の小谷城攻めでも功をあげています。

これにより、1572年織田信長より、

近江国滋賀郡5万石を与えられています。

 

 

さらに、1574年、信長の命により、

4女・珠(珠子・ガラシャ)を、

細川藤孝の嫡男・細川忠興に、

嫁がせる約束をします。

 

 

1573年に坂本城に入り、

1575年には、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)

に、任じられています。

その他、高山右近(キリシタン大名として有名)

を調略し、信長に従属させています。

 

また、丹波攻略の恩賞として、

1580年には、丹波国29万国

与えられています。

ほんの、5~6年でこの出世ですから、

いかに信長から寵愛を受けていたかが

わかりますね。

 

 

しかし、既にこの頃から

運命に暗雲が差し掛かっています。

 

 

この丹波攻略の際、

八上城を攻略しますが、

光秀は八上城の波多野秀治、

波多野秀尚兄弟の助命と

明智光秀の伯母を人質に出すこと

条件に、降伏勧告をして、

波多野兄弟はこれを受け入れ

降伏します。

 

しかし、その後信長は、

波多野兄弟を処刑します。

当然、光秀の伯母も、処刑されたことでしょう。

 

肉親の情に厚い光秀は、

心の中に何を思ったでしょうか・・・?

 

 

『本能寺の変』に突き進む光秀!

1580年8月、光秀は信長から、

丹波攻略の恩賞として

丹波一国を与えられ、先に与えられた

近江国と合わせて、30万を超える石高

になっています。

そして、1582年5月15日

光秀は、徳川家康の饗応役に選ばれますが、

5月17日には、その役を罷免されています。

このあたりの信長の光秀に対する

異常ともいうべき折檻は有名ですね。

もしかしたら、先を見通す力があった

信長は、才長けた光秀に、命を狙われる

危険性を動物的勘で、

感じていたのかもしれません。(私的な推測)

 

 

坂本城に戻った光秀は、

1582年5月27日、軍を整え

出丹波亀山城に入ります。

信長の命で、中国に居る、羽柴秀吉を

助けるため、出陣したと言われています。

そして、5月28日、戦勝祈願のため

愛宕大権現を参詣します。

恐らく、ここで気持ちは固まっていたのでしょう。

 

6月2日、本能寺の織田信長を襲います。

 

 

本能寺では、織田方は少数の兵と小姓、

僧しかおらず、到底、光秀の大軍には

刃が立たず、信長は自刃します。

本能寺には、沢山の武器や弾薬が

運び込まれていたため、

延焼した際に爆発を起こし、

信長の遺体は、光秀の手には

渡りませんでした。

さらに、同日、信長の嫡男・信忠も

二条御所で自刃しています。

これが世に言う、本能寺の変です。

 

 

「本能寺の変」その後

大河ドラマ「真田丸」では、

このあたりから、真田家が人質に差し出した

信繁(幸村)の姉・松が危機にさらされたり、

徳川家康が、危機一髪で三河に逃れたり、

穴山梅雪が殺されたりと、

右往左往、歴史上のドラマが繰り広げられます。

 

 

一方の明智光秀も、

人生の大舞台から、引き摺り下ろされる日

近づいています。

 

6月7日、天皇の勅使を安土城へ迎え、

6月9日には、軍を率いて上洛し

まさに天下人になったのでした。

ところが、6月11日には、

これもまた歴史上、奇跡と言われ

あまりにも有名すぎる

秀吉の‟中国大返し”が始まります。

 

これも、胡散臭いですね~~!

メールや携帯電話があるわけでも

ないのに、異常な速さで情報が

秀吉に伝達されていますよね!

 

 

光秀と秀吉は共謀していたのでは?

そして、秀吉が裏切った。

な~~んて、ね!

考えると、ワクワクしますが、

歴史はいつの世も、勝者のものですから!

光秀は、娘・珠の嫁ぎ先であり、

旧友でもある、細川藤孝に援軍を乞いますが、

藤孝は、これを断り、さっさと還俗します。

そしてついに、6月13日、

天王山周辺の山崎で、羽柴秀吉・織田信孝・丹羽長秀・

高山右近らと激戦の末敗れます。

敗れた光秀は、坂本城に向かう途中、

小栗栖村で落ち武者狩りにあい、

土民の竹やりを受けます。

ここで、家臣に介錯され、自刃します。

享年55歳の生涯でした。

『本能寺の変』には、新説があった!

織田信長はなぜ、そんなに多くの火薬を

本能寺に運んでいたのでしょうね?

ここに、謎がありますよね。

それは、明智光秀の子孫が記した

「織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!」
(幻冬舎)

に、新説が述べられているようです。

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http://www.chibanippo.co.jp/news/local/174619

実は、信長は本能寺で、徳川家康を

重臣もろとも打ち取り、三河の国と

強力な軍隊を一気に手に入れようと

していた、というものです。

私はこの書を読んでいませんので、

詳しくはお伝えできないのですが、

必ず読んで感想を記したいと思っています。

 

光秀の子孫、頑張ったのですね!!

 

明智光秀の人となり・フロイス日本史には?

「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」

「裏切りや密会を好む」

「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、
 忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、
 人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」

「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」

「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」

「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを
 身に備えていた」

「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、
 その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて
 調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかも
 これに逆らうことがないよう心がけ」

 「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」

「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、
 ほとんど全ての者から快く思われていなかった。」

引用元:wikipedia

何だか、智謀策略に長け、出世のために

上司にへつらう、嫌な会社人間みたいなイメージですね!

それもこれも、お家を守るためだったなら、

納得がいきますね。

 

しかし、内政や築城など、諸学に通じ、

和歌や茶の湯を好む風流人であったようです。

この辺は、岩下尚史さんと似ていますね!

さらに、この時代には珍しく、

側室は置かず、妻の煕子ただ一人を

大切に扱っています。

煕子もまた、19歳で光秀に嫁いでから、

貧しい時には髪を売ってでも、

光秀を助けた賢夫人だったようです。

 

 

夫人だけではなく、家臣にも情が厚かったようで、

戦で負傷した家臣に送った光秀の見舞状

多数現存しているそうです。

さらに、光秀は配下の領民を慈しみ

善政を敷いたことでも有名です。

その遺徳は現代まで人々に受け継がれ、

‟亀岡光秀まつり”として伝わっています。

いかがでしたか?

真面目で仕事熱心で、家族や部下

ひいては領民のため、嫌いな上司に

へつらい続けた光秀さんの気持ち、

何となくわかりますよね・・・。

 

細川珠・ガラシャさんについては、

別記事で書かせていただきますね!

 

では、今日も最後までお読みいただき

ありがとうございました!

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